2013年12月31日火曜日

私は生涯一人の妻しか持ちませんでした、私は「これ」で会社を辞めました(小指)!特集(その3) 毛利元就、小早川隆景


■毛利元就





正室の存命中は、側室を持たなかったと言われている。

妻の妙玖(みょうきゅう、法名で本名は不詳)は、吉川家の出身で、元就との間に長女(高橋氏人質、夭折)、毛利隆元、五龍局、吉川元春、小早川隆景を設けた。政略結婚であったが、元就との夫婦仲は良かったとされている。妙玖が存命中には側室は置かず、「三子教訓状」の中でも、その死を惜しんで息子達に彼女の供養を惜しまぬよう命じている。

元就の場合には、三人の男子に恵まれ、三人ともしっかりとした武将に育っており、側室を置く必要性は感じなかったのかも知れない。

■小早川隆景




小早川隆景にも側室がいなかった。そして、世継ぎがいなかった。

隆景は、毛利元就と正室妙玖の三男として生まれた。小早川氏の本家・沼田小早川家の当主・小早川正平は21歳の若さで討死したため、繁平が沼田小早川家の家督を継いだ。しかし、繁平は幼少の上に病弱だったため、大内義隆や毛利元就に尼子氏の侵攻が始まった際に防げないと懸念され、天文19年(1550年)、尼子氏と内通した疑いで拘禁し、強引な手段で強制的に隠居・出家に追い込まれた。このとき、天文20年(1551年)、分家の竹原小早川家を継いでいた隆景に沼田小早川家の家督も継がせるために隆景は問田の大方と結婚した。

二人の間に子はなかったが、隆景は側室を置かず、夫婦仲は睦まじいものであった。しかし、二人の間には子供ができなかったため、夫婦仲は睦まじいことがかえって、小早川本家の血筋が途絶えることになってしまった。その後、元就の末子である才菊丸を養子に迎え、小早川元総(後の小早川秀包)と名乗らせて、家督を継がせた。

 こののち、秀吉から毛利家乗っ取りを画策され、羽柴秀俊を養子に入れられそうになったが、隆景が自分の養子にすることで乗っ取りを回避した。このため、小早川元総(後の小早川秀包)は廃嫡され、別家を創設している。

 小早川隆景は、妻と仲がよかったと言われているが、婿養子であることの気遣いからか、妻と接するに礼人のごとくであったという。養子を迎えれば、家名断絶は避けられたが、秀秋を養子にもらったばかりに、彼の働きの影響で、毛利本家は大幅な減封となってしまった。

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