日の出の勢いだった織田信長でさえ、天下布武の志の半ばで、家臣の裏切りにあって亡くなりました。
秀吉は家臣の中のナンバーワン1であったわけではありません。しかも、織田家の庶子がおり、彼らが信長の跡を継ぐものと思われていました。明智光秀を討って終わりではありません。
敵討ちという戦功があったものの、秀吉を快く思わない家臣もいたため、彼自身が天下をとるには、さらにもう一働きも二働きもする必要がありました。
黒田官兵衛をはじめとする家臣や、織田家の宿老たち、他の大名家(上杉、毛利)などの支持を取り付け、反対勢力を各個撃破して、圧倒的有利な状況を作り出していったわけです。
秀吉の軽妙なわざで人の懐に入り込む、褒美を与えて操縦する、というやり方自体が、強みだったといわれますが、そのやり方自体が仇となって、一代で政権が崩壊してしまった、と『名将言行録』に詳しく書かれています。また、どうして家康が政権を握るに至ったかも同様に書かれていますので、ご紹介いたします。
黒田官兵衛の項です。
官兵衛本人が言ったかどうかは不明です。『名将言行録』自体は史料価値は高くなく、後世になって「あとづけ」で創作された可能性があります。だから、評論家のあとづけ講釈として読めば、誤らないでしょう。
長いので、できるだけコンパクトに縮めます。
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―豊臣政権が二代続かない理由
太閤が天下を治める様子による。
懐に入る身軽さ、色々と褒美を与えるから、親しみをもたれたが、真の忠誠心をもたれたわけではない。
太閤の世には、その身の果報や武勇からどのようにしても治まるが、子の代で同じやり方は通じない。威厳が失われるし、武功が元々ないから、人々から軽んじられるだろう。それを反対に、威を振るったら、太閤すらそうであったのにと不満が出て、世間のそうした気詰まりがでてきたことに飽く者も出てくる。しかし、太閤のように知行や財宝を与えることなど、とてもできないから、親しむ心がなくなり、諸将の離反を招き世が乱れるのは必定。
太閤が天下人になったからには、威厳を持って、行儀を正しくし、信念を持って国を治めれば、次代への相続も容易だろうが、今の状態では二代は続かない。
―家康が天下人になった理由
家康は大身で、老巧で、武勇は天下無双。日常の行ないも律儀で、人々は皆彼を尊敬している。
また、生来の口不調法であり、人が失敗したり軽薄な行動をしても、見下げたり怒ったりすることもなく、その人の真の意思を汲み取る。
武の道については、その自信は人後におちない。太閤の面前で、長久手の武功を素直に言ってのけるくらいだから、自然に家康に一目置くようになり、心中で怖れるようになった。
だから、太閤のあとには、家康に天下が帰するであろう」と。のちに果たして孝高のいったとおりになった。
もしかしたら、どこかで似たような評論に接したことがある方もいらっしゃるかも知れませんね。
「太閤が天下人になったからには、威厳を持って、行儀を正しくし、信念を持って国を治めれば、次代への相続も容易だろうが、」とあり、威厳が全くなかったわけではないが、やはり譜代の臣があまり強力ではなく、毛利・上杉をはじめ、大勢力への気遣いが必要で、徳川幕府のような武断政治で、どんどん外様の力を削っていくことは難しかったでしょう。困難は必至です。
譜代の臣といえる子飼いの武将や、三成をはじめとする吏僚派武将たちがいましたが、彼らを世継ぎの下に組織化する時間がないまま、朝鮮に出兵してしまったのは失敗だったでしょう。
前田利家と徳川家康以外は、膨大な戦費や死傷者を出して、国力がダウンしてしまったことは、家康の台頭を招きやすかったのではないでしょうか。
秀吉が長く続いた戦国の世をいったん終わらせた功績は変わることはないでしょう。
他の武将にはできない離れ業だったわけで、それを受け継いでいくことに暗かった、というべきでしょうか。
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