2014年1月6日月曜日

私は生涯一人の妻しか持ちませんでした、私は「これ」で会社を辞めました(小指)!特集(その4) 千姫のその後


本多忠刻(千姫の夫となった人)


この人、誰?と思われた方もおられると思うが、よく大坂の陣で悲劇の姫として描かれる千姫の夫である。大坂の陣のあとに千姫と結婚した。彼は、側室をおいていない。それは、将軍家への気遣いだったのかも知れない。

慶長元年(一五九六)、後の姫路藩主・本多忠政の長男として生まれる。祖父は本多忠勝。大坂夏の陣では忠政と共に出陣し、慶長十九年(一六一五)の道明寺の戦いにも参加して敵の首級を挙げている。戦後の元和二年(一六一六)、徳川家康の孫娘で豊臣秀頼の正室だった千姫と婚姻した。家康が臨終の際に、政略結婚の犠牲とした千姫のためを考えて、忠刻やその生母に婚姻を命じたとする逸話もある。

この時、津和野藩主・坂崎直盛(旧名 宇喜多詮家(宇喜多秀家のいとこ)が輿入れの行列を襲って千姫を強奪する計画を立てていることが発覚し、直盛は自害(もしくは家臣により殺害)、坂崎氏は改易処分となった(千姫事件)。
坂崎直盛(宇喜多左京亮)を改易したい幕府側の陰謀だったかもしれない・・・なんで、千姫の輿入れを坂崎が妨害しなきゃいけないのか。合理的な理由が見当たらない・・・不自然。

千姫との間には、結婚して二年後に元和四年(一六一八)に長女・勝姫(池田光政室)、元和五年(一六一九)には長男・幸千代が生まれている。夫婦仲はよかったのか知れない。しかし、元和七年(一六二一)に幸千代が三歳で早世し、忠刻も寛永三年(一六二六)に結核のため亡くなってしまった(享年三十一)。

なお、宮本三木之助(二十三歳)は忠刻の供をして殉死し、その他に岩原牛之助(二十一歳)も殉死した。忠刻は忠政の世子だったが早世したため、弟の政朝が世子となって姫路藩第二代藩主となった。

家康や秀忠が、千姫の幸せを願い、幸せな結婚生活にふさわしい相手として選ばれたのだろう。夫、忠刻もその期待に応えて、千姫に女性としての幸せともたらしたのだった。

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