2013年12月30日月曜日

私は生涯一人の妻しか持ちませんでした、私は「これ」で会社を辞めました(小指)!特集

官兵衛は生涯一人の妻しか持ちませんでした。
戦国時代でも下級武士(という言い方がいいかわかりませんが)や庶民などは一人の妻しか持ちませんでした。金銭的余裕の必要ですからね。
ただ、官兵衛のような武将が一人というのは、非常に珍しいことでした。
珍しい中で、他にいたんではないか?ということで探してみると、
いましたいました。

■明智光秀



 
 
 
 
 
 


 明智光秀は側室を持たなかったと言われている。

妻は『明智軍記』などに記載のある妻木氏が有名。正室の名前は煕子で、次のような逸話が伝わっている。煕子は美濃の妻木勘解由範煕の長女として生まれた。明智光秀と縁談が決まったあと疱瘡にかかり、美しかった顔に痘痕ができてしまった。妻木家にとっては潰したくない縁談だったのか、あばた顔の煕子の代わりに、結婚式の当日に煕子の妹を身代わりとして、直接明智家に向かわせた。しかし、光秀はこれを見抜き、煕子を妻に迎えたという逸話がある。光秀は正室の煕子夫人だけを愛し抜いたと言われる。彼の生真面目さを示しているのだろうか。非常に仲のよい夫婦だったようで、織田信長に仕える以前の貧しい時代に、熙子が女性にとって命の次に大事な黒髪を売って夫の同僚を接待する費用を捻出した話がある。ちなみに、煕子は元々痘痕ができる以前は美女だったようで、娘の細川ガラシャも非常に稀なる美貌だったようだ。

ただし、俗伝として喜多村保光の娘、原仙仁の娘という側室がいたという説もある。また、前室に山岸光信の娘がいたとする説もある。

■直江兼続


 

 

直江兼続も側室を持たなかった。兼続といえば、NHK大河ドラマ「天地人」(2009年度)で、一躍有名になった武将だ。彼は、謙信急死後の上杉家相続争い(天正6年(1578年)の御館の乱)では、父・兼豊と共に景勝方に就いた。天正9年(1581年)に、景勝の側近である直江信綱が、毛利秀広に殺害される事件が起きる。兼続は景勝の命により、直江景綱の娘で信綱の妻であった船(せん)の婿養子となり、跡取りのない直江家を継いで越後与板城主となった(船にとっては再婚)。この時、信綱とお船の間に生まれたとされる子は出家して高野山に入ったという。

兼続はこの船との間に、12女(長男:直江景明、長女:於松、次女は名が不明)に恵まれた。兼続と船の仲は大変良かったようであり、兼続は生涯、側室を持つことがなかった。

慶長20年(1615年)712日、父に先立って病死。享年2218とも)。戒名は

ちなみに、兼続は慶長9年(1604年)本多正信の次男・本多政重を長女於松の婿養子に迎えているが、翌年於松は早世した。長男景明も慶長20年(1615年)に早世した。生来病弱で両眼を病んでいたため、兼続が景明のために五色温泉を開き、長期間の湯治をしたという。婿養子の政重と、景明誕生前に養子であった本庄長房の2人が、共に加賀へと出奔していたため、父・兼続に後継者は残っておらず、母・船の死後、直江家は無嗣断絶となった。

このように、婿養子も出奔してしまい、実子は病弱ということになると、やはり、家名断絶のリスクが高くなるのである。

■石田三成


 

 

石田三成も側室を持たなかった。

正室皎月院(こうげついん)は三成とのあいだに、三男三女の母(石田重家、石田重成、辰姫ら。後妻であり二男一女の母とも)を設けた。父は宇多頼忠、姉に山手殿(真田昌幸の正室)、兄弟に宇多頼重らがいる。三成からは「うた」と呼ばれていた。当時政権の中心にあった三成の妻であるにもかかわらず、逸話などはほとんど残っていない。

関ヶ原の戦いの際には父や三成の家族とともに佐和山城にいた。関ヶ原で三成ら西軍が敗れると、徳川家康は西軍を裏切った小早川秀秋らに佐和山城を攻めさせた。城方も奮戦するものの数に敵わず、宇多頼忠、頼重らは自害し、三成の家臣土田桃雲が皎月院ら婦女を刺殺し天守に火を放ったという。享年は不明。

長男の石田重家は、関ヶ原における西軍大敗の知らせを知ると、重臣の津山甚内や乳母らによって密かに京都妙心寺の塔頭寿聖院に入り、住職の伯蒲恵稜によって剃髪して仏門に入った。

重家は京都所司代奥平信昌を通じて助命を嘆願し、家康に許される。後に寿聖院の三代目を継いだ。ちなみに、寿聖院は三成が実父正継のために建立した寺である。

次男の石田 重成は、西軍が東軍に大敗し居城佐和山城も落城したことを知ると、津軽信建の助けで乳母の父・津山甚内らとともに陸奥国津軽に逃れた。彼の妹、辰姫は津軽信枚に嫁いでいた。後述するが、津軽信枚の父為信は南部家から独立するにあたり、石田三成の取りなしで秀吉から認められたという経緯があり、その恩義を津軽家は感じていたことから匿ったのであろう。その後は彼は杉山源吾を名乗り、津軽氏の保護のもと深味村(現・板柳町)に隠棲する。長男・吉成は弘前藩主津軽信枚の娘を妻として家老職についており、子孫の杉山家は弘前藩重臣として存続した。

正室ひとりしかいなかったが、子宝に恵まれた。関ヶ原の戦いで三成自身が敗れて亡くなったとはいえ、本州の北端で家名を存続させている。
 
ということで、妻一人であっても、多くの子供に恵まれていたら、いいんですが、
官兵衛の場合には、長政ひとりでした。実は、熊之助という次男もいますが、彼は朝鮮の役の際に、渡海中に東シナ海の藻屑となってしまいます。
 
では、なぜそんなリスキーな行動をとったのでしょうか?
それは、また次の機会に!

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