2013年12月31日火曜日

私は生涯一人の妻しか持ちませんでした、私は「これ」で会社を辞めました(小指)!特集 (その2) 山内一豊


■山内一豊


 

 

山内一豊も側室を持たなかった。
NHK大河ドラマでも、妻千代のあげまんぶりが喧伝されていたこ。

妻の千代(見性院(けんしょういん))は、夫に馬を買わせるために大金を差し出した話や、笠の緒文などの様々な逸話で知られ、良妻賢母の見本とされる。とはいえ、この妻との間には、男子が生まれず、実子は与祢姫のみであった。

しかし、その与祢姫も、天正地震によって一人娘の与祢姫を失っている。それでも、一豊は側室を持たなかった。

ちなみに、天正地震とは、天正131129日(1586118日)に日本の中部で発生した巨大地震で、被害地域の記録が日本海の若狭湾から太平洋の三河湾に及ぶ歴史上例のない大地震であった。震源域もマグニチュードもはっきりした定説はない。三河にいた松平家忠の日記によると、地震は亥刻(22時頃)に発生し、翌日の丑刻(2時頃)にも大規模な余震が発生。その後も余震は続き、翌月23日まで一日を除いて地震があったことが記載されている。

この頃、一豊は、小牧長久手の戦いのあと、豊臣秀次の宿老となり、天正13年(1585年)には若狭国高浜城主、まもなく近江長浜城主(2万石)となった。その秀吉出世の地、長浜城主となったときに、天正地震によって一人娘の与祢姫を失っているのである。

一豊は、気を取り直して、領内復興に努め。その間、母も亡くしている。

地震の被害にあった地域の復興作業は以前として続いていた。一豊も領内復興に全力を注いだ。この影響もあって、2万石どりになっても台所事情は極めて苦しかったが、一豊は、機転の利く妻と共に、城下の復興に懸命だった。

■捨て子を拾う


ここで、なんと一豊は捨て子を拾ったのであった。その子は、妻千代が与祢姫の墓参りに行った帰り、屋敷の門の近くに、わらのかごに入った状態で捨ててあった赤ん坊であったという

この拾子の素性については、一豊が側室に産ませた子とか、家臣の子など、諸説ある。いずれにしても、一人娘を亡くし、母も亡くしたときに、不幸な話しが続いた中で、一筋の希望として豊夫妻も気持ちが安らいだことだろう。

この子の名前はのちに湘南 宗化(しょうなん そうけ)となる。豊臣秀次が跡継ぎ問題で切腹した文禄4年(1595年)頃に、養父・一豊の命令で家を離れて出家する。これは、正式な血統ではない彼に家督を継がせるのは、将来、山内家にとって問題になると考えたからだとされる。

 その後、京都で修行を積み湘南宗化となり、養父母から土佐国の吸江寺を与えられて住職となる。また、京都妙心寺大通院の第2代住持でもあり、朝廷から紫衣の勅許を受けるほどの高僧となった。土佐慶徳山円明寺(江戸時代に焼失)の中興を行っている。この妙心寺大通院は山内家菩提寺となり、ここに一豊夫婦の京都墓所もある。また、見性院は夫・一豊が慶長10年(1605年)に死去すると、土佐を引き払い湘南宗化のいる妙心寺近くに移り住んで余生を京都で過ごしている。なお、湘南宗化の妙心寺時代の弟子(土佐吸江寺にも同行)に山崎闇斎がいる。

■養子を迎える


 結局、男の子だけでなく、実子に恵まれなかった一豊夫妻は、養子を迎えることとなった。

 一豊の同母弟の山内康豊の長男であった山内忠義を、慶長8年(1603年)に養嗣子とした。彼は、徳川家康・徳川秀忠に拝謁し、秀忠より「忠」の偏諱を賜って忠義と名乗った。同10年(1605年)に家督相続したが、年少のため実父康豊の補佐を受けた。慶長15年(1610年)、松平姓を下賜され、従四位下土佐守に叙任された[3]。また、この頃に居城の河内山城の名を高知城と改めた。

■まとめ

 一豊が正室しか妻をもたなかったということが真実だったのだろうか。一般的には、愛妻家であったと言われている。世継ぎが生まれないまま、天正大地震(天正13年(1586))で一人娘を失ったのが、四十一歳。そのとき、妻の千代は二十九歳。

子供を産める年齢ではあるものの、それまで娘一人だったというのは、家中の者たちは危ぶんだに違いない。側室の勧めを断っていたのか、あるいは、千代の力が強すぎて、一豊がこそ~りと側室を作り、捨て子と称して育てたのか・・・単に側室の記録が残っていなかったのか。側室を持たないというのは、「常識」に反するし、当主の個人的趣味だから、では片付けられないことだったはずで、記録に残っていない側室がいたかも知れない。

一方で、「拾い子」は頭がよかったが、やっぱり、氏素性が判らない子供を嫡子にするわけにはいかないから、出家させたというのも何となく不自然な気がする。乳飲み子の頃から山内一豊の子として育てられたのであれば、別に実の親との縁は切れているのであって、あえて問題にするほどのことなのだろうか。実は、その子は「拾い子」などではなく、誰かの子を引き取ったのではないか・・・その子は、秀次の切腹の時期の前後に出家させられている。その頃、一豊五十歳、千代三十八歳。すでに、世継ぎを産むことは難しい時期に、優れた能力があると見られた「拾い子」で、せっかく養育した子をあえて出家させる必要があるだろうか。

いずれにしても、記録上は側室がいなかったことは間違いない。あえて、おしどり夫婦のあげまん女房にまま、そってしておいてもいいのかも知れない。

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