伴天連追放令の発令の際に、見せしめとして所領を没収され追放されました。その後、加賀前田家に寄食する身となり、徳川幕府の禁教令により呂宋(フィリピン)に追放となってしまいます。
■秀吉の伴天連追放令の影響
秀吉からも信任のあつかった右近は、天正13年(1585年)に播磨明石郡に新たに領地を6万石与えられ、船上城を居城とします。
しかし、まもなくバテレン追放令が秀吉によって施行され、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選び、世間を驚かせました。
■加賀前田家に寄食
その後しばらくは小西行長に庇護されて小豆島や肥後などに隠れ住みますが、天正16年(1588年)に加賀金沢城主の前田利家に招かれて同地に赴き、そこで1万5,000石の扶持を受けて暮らしました。
前田利家自身もキリシタンとなっていたこともあるし(洗礼名
オーギュスチン)、秀吉との親しい中であったこともあり、匿われたのでしょう。
小田原征伐にも前田軍に属して従軍しています。
金沢城修築の際には、右近の先進的な畿内の築城法の知識が大きく役に立ったともいわれます。また利家の嫡男・利長にも引き続き庇護を受けます。慶長14年(1609年)には、利長の隠居城・富山城の炎上により、越中射水郡関野(現富山県高岡市)に築かれた新城(高岡城)の縄張を担当したといわれています。
■徳川幕府の禁教令
秀吉の伴天連追放令は不徹底でしたが、徳川幕府の禁教令は慎重かつ綿密に行われました。
家康は関ヶ原の戦い以後、慎重に豊臣政権から徳川幕府に政権の移行を図ります。
豊臣恩顧の大名が一斉に蜂起して反乱を起こすのを心配したためとも言われます。
キリシタン政策についても、慎重でした。関ヶ原の戦いの勝利に貢献した黒田官兵衛が熱心なキリシタンであり、彼が周旋してキリシタン保護に動いたからだとも言われます。
しかし、その後幕府の権力基盤を固まっていくなかで、排斥されていきます。
慶長19年(1614年)、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去します。長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着。
イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペイン人のフィリピン総督フアン・デ・シルバらから大歓迎を受けます。しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、翌年の1月8日(1615年2月4日)に息を引き取ってしまいます。享年64。
葬儀は総督の指示によってマニラ全市をあげてイントラムロスの中にあった聖アンナ教会で盛大に行われました。
右近の死後、家族は日本への帰国を許されました。
現在、石川県羽咋郡志賀町代田、福井県福井市、大分県大分市に直系子孫の3つの「高山家」があるそうです。
しかし、どんなに排斥されても、財産を失っても、へこたれない信仰。どこからそんな力が湧いてくるのでしょうか。それが「信仰」の力というものなのでしょう。みんな何かを信じて生きていますが、お金や財産、地位や名誉などをあてにして、必死に守って生きるよりも、そんなの死んだら何一つもっていけない。そんなあてにならないものよりも、魂の問題を解決することを彼は重視したのだろうと思います。
私自身はクリスチャンではありませんが、それは至極もっともなことだと思います。
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