■序
黒田官兵衛に天下への野望があったかどうか、これは重要な問題です。
なぜかというと、この問題こそが官兵衛のドラマチックなところだからです。
天下をとれるだけの智謀があったのに、チャンスを逃して天下を取り損なった、二流の人・・・
なんていわれてしまっている、官兵衛。
そんな意図がなかったのに、勝手に祭り上げられ、貶められている。
心外なのではないか、と思います。なんで二流やねん・・・(姫路弁で)
■背景、石田三成挙兵まで
秀吉が亡くなり、朝鮮から引き上げてくる諸将。
秀吉は亡くなる直前に、諸将に誓紙を提出させて、秀頼を盛り立てて豊臣政権の存続を図ろうとします。
ナンバー2で諸大名の中で抜きん出ていた徳川家康。一方、朝鮮の役で諸将は傷ついていました。財政的にも。莫大な戦費を負担し、朝鮮の抵抗運動にも悩まされて、犠牲を強いられました。
ナンバー1がいなくなった天下は、ナンバー2の手に渡る、これは道理です。
しかも、家康と前田利家は、朝鮮に渡海していませんでした。そのため、名護屋城在城の兵糧負担だけで済んでいます。家臣団は無傷でした。しかも、家康は豊臣政権下で筆頭の250万石。
豊臣政権の直轄領の石高に迫るものでした。一方、前田利家は80万石前後。
家康が中心となって豊臣政権を運営していくのか、あるいは、家康自身が天下を動かすのか(豊臣政権は傀儡となるのか)。
ただ、家康は慎重に事を進めます。もし、他の大名たちが、豊臣政権の下に結集し、家康の排除に動いては、勝目がありませんでした。毛利120万石、上杉100万石、前田85万石、宇喜多50万石・・・彼らが全部敵に回ってしまってら、いくら家康でも勝てなかったでしょう。
だから、慎重に時を待った。
諸将の中で、家康へ天下が帰趨することを感じていました。官兵衛も早くから家康への接近を図っています。
一方、豊臣政権を盛り立てていこうとする勢力や、家康に天下を渡して自分が風下に立つのを潔しとしない勢力もいました。
石田三成をはじめとする奉行です。また、福島正則や加藤清正ら秀吉子飼いの大名も豊臣政権自体の存続を図ることには賛成でした。他にも家康の風下に立つを潔しとしない上杉、宇喜多などもいたのです。
そこで、家康は囮というか、スケープゴートが必要でした。その囮を利用して、豊臣政権との敵対という形をとらず、豊臣政権の家臣同士の戦いで、自分に敵対する勢力を、自分についてくる勢力を利用して叩く。石田三成が囮として最適でした。
後世、石田三成をひどい人間のように描いていますが、それは誤りです。
確かに、おとなしくしていれば一大名として存続し、行政に非常によい手腕を発揮した名君として語り継がれていたことでしょう。ただ、どうしても大恩ある秀吉の遺言をないがしろにする輩が許せなかった。武士として、義理を果たすことに殉じただけです。家臣の島左近には、そんなに義理を通しても・・・ちょっと子供じみてない?と言われてしまっています。
江戸時代には、石田三成自体はひどい描かれ方をしたままでしたが、
三成のように忠義を尽くした人は顕彰されました。
世渡りは下手だったかも知れません。青臭かったかも知れません。
でも、そういう人が必要なんだと思います。
司馬遼太郎さんは、「よくもまあ、大会社の課長クラスの人が、頑張って役員クラスの人を集めてきて、戦ったものです」と慨嘆されているように、三成は、仲が良かったと言われる上杉と内通し、毛利一族(毛利、小早川、吉川)、宇喜多秀家、小西行長、島津義弘、長宗我部盛親、丹羽長重などを反家康方に引き入れることに成功します。
家康が会津の上杉征伐に上方を留守にしたときに、石田三成が家康打倒を掲げて、挙兵します。
■官兵衛の動き@九州
このとき、官兵衛は中津(現 大分県中津市)にあって、長政を家康に付き従えさせる一方、上方の情勢を中津に知らせる早舟を組織して、アンテナを張ります。
結果どうなったか。皆さんご存知のとおり、東軍が勝利。家康は、徳川秀忠が率いる本隊が本戦に間に合わないという不利があったにもかかわらず、毛利方の裏切りを誘って、戦局の不利を逆転し、圧倒的な勝利を得ます。
一人息子の黒田長政は、福島正則らの豊臣恩顧の大名を、反三成ということで家康方に結集する工作を成功させます。当時、大坂城には諸大名の人質がいて、これを石田三成は拘束していました。東軍についたら、人質を殺されるかも知れない危険性がありました。それでも、福島正則らの豊臣恩顧の大名は家康についた。長政の工作も功を奏しました。
一方、九州にいた官兵衛は、西軍だらけの九州で、東軍につくことを前提に、西軍の諸城を攻めるため果敢に出撃します。
当初、家臣たちは出撃には難色を示しました。敵だらけで、味方は熊本の加藤清正だけ。できるだけ、中津城の防備を固めて、籠城したほうがいいでしょう。しかも、黒田家臣団の主力は長政について上方に行っていますので、中津に残っているのは、僅かな兵だけです。
官兵衛は、「お前たちは何年俺に従ってきたのか。俺の力量を知らないのか。こんな兵力の劣勢は、跳ね返せない俺だと思っているのか!」と、金蔵を開いて、日頃のケチケチ生活で溜め込んだお金をばらまいて牢人をかき集め、三千人以上の兵を集めて、豊後方面に向かって出撃します。
戦いの状況は長くなるので、省略しますが、官兵衛は豊後を平定後、毛利(森)勝信の香春岳城を落とし、一時西軍についた鍋島勝茂(直茂)を東軍に勧降し、毛利秀包の久留米城を落とし、柳河城の立花宗茂を降伏させ、加藤清正と合流して、薩摩の島津攻めをするために南下します。
八代まで南下したとき、関ヶ原の合戦に勝利した家康の停戦命令が出され、停戦して中津に帰ります。
■官兵衛の意図
ここで、官兵衛は破竹の勢いで、九州を席巻したように見えますが、実は、関ヶ原の戦いが半日で決着したことにより、西軍についた諸大名が味方の上方での敗北を知り、所領の安泰を図ろうとしたことにより、一刻も早く東軍の官兵衛に降ってきたので(柳河城の立花宗茂は頑固に抵抗しましたが)、有利に戦いを進められたのです。決して彼自身の軍略によって、九州を席巻したわけではありませんでした。
『黒田家譜』には、関ヶ原の戦い後、官兵衛が長政に語る場面が描かれていて、
もし、東西両軍がにらみ合ったまま戦況が膠着していたら、九州を平定してから、中国を制圧し、上方に侵攻して、家康公を助けようとしたと書かれています。
もちろん、『黒田家譜』は幕府に提出するものだったので、「家康公を助けようとした」というのは、本当かどうか分かりませんが、チャンスがあれば、中国地方も調略で落とし、出身地の姫路あたりに上陸して、大軍を擁して上方に攻め入ろうとしていた、という戦略を描いていたということでしょう。
官兵衛が天下を狙っていたという説では、これを東軍が勝っても、それを叩けば勝利して天下がとれる、と官兵衛が思っていたと主張します。
しかし、本当にそんなことが実現するのでしょうか。
『黒田家譜』には、家康公が負けたら天下がまた大乱になる。それを望んでいないから、自分が九州から上方に駆けつけて家康を助けたいと、長政に言ったとされています。
同じく、『家譜』には、若い頃は大功を立てて出世しようとしていたが、老成して、そのような名利(名誉欲や利益欲)は棄てて、天下万民のため平和な世の中を、しかも、皆が住みやすい世の中を作ろうしたことが読み取れる箇所があります(官兵衛晩年の記述)。
それを実現するためには、家康に天下をとってもらうしかない、と思ったかも知れません。
いやいや、幕府に提出する『家譜』だから、綺麗事を書いているだけだよ、という方もいらっしゃるでしょう。
しかし、官兵衛の発想はやはり変わっていて、現代人に割と近い。宣教師から聞いてであろうキリスト教や西洋の思想の影響もあると思います。私たち現代の日本人も、同様の思想の影響を受けていますから。乱暴な言い方をすれば、源流は同じ。
たとえば、一夫一妻の愛妻家、殉死の禁止(殉死をするくらいなら、次の当主に仕えよ)、上に立つ者は家臣・領民を畏れよ(家臣・領民が困るように主君ではダメ)、朝鮮の役でも朝鮮の民を慈しみ手懐けよ(武威で脅していては、返って反撃にあるだけで、統治できない)・・・etc
ということからも、平和な世の中を作るという大目的があって、
次にそれを誰が引っ張っていくのか(手段)、それに一番近いのは家康、
多分家康が勝つだろうけど、もし家康が倒れたら、俺が何とか実現する。
決して、どす黒い野望ではなく、ベリーホワイトな営み。
これが、官兵衛の本意だったと思います。
もちろん、人間ですから欲もあって、家康に恩を売って、長政以下の子孫により大きな領土を遺してやりたい、だから、できるだけうまくやれば、一カ国以上もらえるだろうと踏んでいたでしょう。
果たして、先見の明があった官兵衛は、望んだとおりの世の中が訪れます。
官兵衛に残されていた時間は、あと四年あまりでした。
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