2013年12月20日金曜日

高山右近の最初の試練

■高山右近の紹介

高山右近を皆さんご存知でしょうか。戦国時代~安土桃山時代のキリシタン大名です。歴史に関心がある方なら、絶対に聞いたことがある名前だと思います。

彼の父母はキリシタンであり、彼自身も若いころに受洗した。武将としても信長や秀吉に愛されたが、
秀吉が伴天連追放令を発令してから、彼の人生が暗転し、所領没収→加賀前田家お預け→フィリピンに追放・・・となってしまいます。

■訪れた試練

時間をさかのぼって、順調に見えた彼の人生に最初の試練が訪れたのが、26歳の時。

摂津高槻城主だった高山右近が仕える摂津国の領主荒木村重(居城有岡城(伊丹城))が織田信長への謀反をおこし戦いをいどむことになります。

すでに、摂津の西隣の播磨国には秀吉を司令官として攻略が進んでおり、このままでは秀吉が退路を絶たれ、毛利と村重らの挟みうちにあって危険な状況でした。

荒木村重は信長の信頼も厚く、黒田官兵衛とも親交があった人物ですが、諸事情があり織田方と対峙していた毛利方に寝返ります(寝返った理由は諸説あります)。

右近は村重の信長への謀反に反対するものの、高山右近は子供と妹を荒木村重に人質として差し出し忠誠を誓います。

織田信長は荒木村重を攻めるため、その通路である高槻城主高山右近に勧降工作をします。信長は右近が金や領地で釣れないと知っており、別の有効な方法を繰り出します。

それは、高槻領内のキリスト教神父を捕らえ、もしも右近が 村重に従うならば、神父達を殺害すると伝えてきます(一説には畿内全域の神父たちを殺害するぞと脅された)。

■右近の中の迷い

この時、右近は「信長様なら殺戮をやりかねん。しかも、一度裏切ったら絶対に許してくれない。」
 
「しかし、主君の荒木村重殿への忠義もあるし、村重殿を裏切れば差し出した人質も殺されるだろう。」
 
葛藤、迷いが生じて悩みます。
 
尊敬していたイエズス会員・オルガンティノ神父に助言を求めます。神父は「信長に降るのが正義であるが、よく祈って決断せよ」とアドバイス。

高槻城内でも意見が二つに割れます。

■右近の決断
 
彼は、彼自身の良心に従う決心をするのです。

頭を剃り領地と城を明け渡し、従者をもつけず信長の前に現れます。
 
この政治の世界との絶縁を示すこの行為は、右近を思いもよらぬ結果へと導くことになるのです。

彼は信長に許され、所領を安堵されただけでなく、荒木村重にさしだした人質も命が助けられるという、非常に幸運な結果となります。

人生最大の危機に直面して、右近は良心の声に耳を傾けることによって乗り越えました。

その後、彼はより一層キリスト教信仰に邁進していくことになるのです。

■なぞ

しかし、なんで荒木村重は人質を生かしたんでしょうか。
黒田官兵衛も村重に織田方に戻るように説得に行って捕まりますが、生かされます。どうして生かされたんでしょうか?


なぞです・・・
 

■関連記事
 
官兵衛は一年間村重に拘束されます。土牢のようなところだったと言われていますが、確証はありません。
 
その点で、有岡城が落城して、官兵衛が拘束から解放され、有馬の湯で湯治をして快復してから、4年後に、出家した村重(道糞と号した。道端のくそと卑下)と書状を交わしています。
 
その書状は戦前の歴史書には載っていたようですが、最近、博物館の調査で文献が発見されたようです。
 
http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201312/0006542207.shtml
http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201312/0006542207.shtml
 
もしかしたら、官兵衛が過酷な状況に置かれたのは、創作だったかも知れません。それがわかったら、世紀の大発見!(にはならないか・・・)個人的にはびっくり!!!!くらいでしょうか(笑)





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