2013年12月17日火曜日

官兵衛の臨終場面



かなり話が飛びますが、官兵衛の臨終場面は、彼がキリシタン信仰の熱心さを教えてくれます。

官兵衛「神父を呼んでくれ・・・ロザリオをくれ」
家臣「承知致しました」
しかし、神父は現れなかった。
官兵衛「長政、わしの合子甲と鎧は栗山利安に与える。これをわしを思い、忠勤を励んでくれ。」
長政・栗山「承知致しました(涙)。」
官兵衛「あと、博多に教会を建て教団を保護して欲しい。その教会にわしを葬ってくれ」
長政「父上・・・承知致しました。そこまで、伴天連のことを・・・」
官兵衛「頼んだぞ、長政」

伏見の黒田藩屋敷。二人が枕元に呼ばれたのは、官兵衛が二人を信頼したと共に、二人が官兵衛を信頼したとも言えるでしょう。

のちに、長政は博多のキリスト教会を作ることに同意します。
ただし、幕府に配慮して、官兵衛の追悼施設としての建設を認めます(教会ではなくて)。



長政が軟化し、官兵衛の弟の直之が熱心なキリシタンであったこともあり、
博多でのキリシタンの布教は一時盛んになります。
徳川幕府が慎重な姿勢であったこともあり、全国的に盛んになります。九州だけではありませんでした。愛知、東北、広島などです。

つぎに、甲冑を息子ではなく、腹心の部下に与えたことも意味があります。
後の黒田騒動の遠因となったからです。栗山利安の子栗山大膳が黒田家の忠義を貫いたのも、
官兵衛の甲冑を家宝とし、黒田家への命懸けのご奉公を家訓としたことから生じたものだと思います。



ご存知ない方のために・・・・

「黒田騒動(くろだそうどう)は、福岡藩で発生したお家騒動。栗山大膳事件(くりやまだいぜんじけん)ともいう。伊達騒動、加賀騒動または仙石騒動とともに三大お家騒動と呼ばれる。
長政は世継ぎ継承にあたり長男忠之の狭器と粗暴な性格を憂い、三男の長興に家督を譲ると決め忠之に書状を送る。書状には二千石の田地で百姓をするか、一万両を与えるから関西で商人になるか、千石の知行で一寺建立して僧侶になるかと非常に厳しいものであった。これに後見役の栗山大膳は、辱めを受けるのなら切腹をとの対応を忠之に進める。そして六百石以上二千石未満の藩士の嫡子達を集め、長政に対して廃嫡を取りやめなければ全員切腹すると血判状をとった。この事態を重く見た長政は嘆願を受け入れ、大膳を後見役に頼んだ後に死去。大膳はそこで忠之に諌書を送ったが、これが飲酒の心得や早寝早起きなど子供を諭すような内容だったため、忠之は大膳に対し立腹、次第に距離を置くようになる。2代藩主・忠之は寛永元年(1624年)藩主就任早々、彼とその側近と筆頭家老・栗山利章(大膳)など宿老との間に軋轢を生じ、生前の長政が憂いていたとおりにお家騒動へと発展した。忠之は児小姓から仕えていた倉八十太夫(くらはち じゅうだゆう)を側近として抱え、1万石の大身とした。そして十太夫に命じ豪華な大船・鳳凰丸を建造、更に200人の足軽を新規に召し抱えるなど、軍縮の時代にあってそれに逆行する暴政を行った。これにより遂に幕府より咎めを受けるに至った。栗山利章は寛永9年(1632年)6月、藩主が幕府転覆を狙っていると幕府に上訴した。このため幕閣は利章を尋問した。寛永10年(1633年)2月、幕府は所領安堵の触れを出し10年に及ぶ抗争に幕を閉じた。利章は騒動の責を負って陸奥国の盛岡藩預かりとなり、十太夫も追放された。なお、十太夫は島原の乱で黒田家に戻り鎮圧軍に従軍したが、戦死した。
この事件を森鷗外が小説『栗山大膳』において、改易を危惧した利章が黒田家を守るために尋問の場で訴えたとして脚色し描いている。十太夫は、島原の乱で一揆軍に加わり戦死したことになっている。(Wikipediaより)
また、官兵衛が家臣たちの殉死を禁止していなければ、栗山利安は殉死していたかも知れない。しかし、官兵衛が禁止しました。これは、彼はキリシタンだったから、自殺を禁止したことの延長線上にあったこともあるでしょうし、無駄死をやめて長政に仕えて欲しいという気持ちからだとも思えます。


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