突然ですが、
■官兵衛が攻城用兵器を繰り出して城攻めを成功させた事例
①四国征伐のとき、阿波岩倉城攻めで井楼を築いた
岩倉城が要害だったため、犠牲を増やさないため、力攻めをやめ、井楼を築かせ、
その上から日に数回城内に向けて鉄砲を打掛けさせました。
鉄砲は、火縄銃ではなく、抱え大砲だったと思われます。なぜなら、城方の動揺を与えるためには、それなりの威力が必要だからです。通常の鉄砲は射程が50~100mで、弾も大きくありませんからね。
さらに、寄せ手(城を攻める軍勢)が鬨の声をあげて、その声が山間にこだまし、城方を疲労させたりして、損害を少なく、城を開城させます(城将、長宗我部掃部頭親興は土佐へ逃げます)。
②朝鮮の晋州城攻めで、亀甲車を利用して、城壁に無傷で接近し、城壁を登って、城を落とした。
加藤清正と共同で攻め、亀甲車を利用したので、あたかも加藤清正の家臣が発明して製作したかのように語られている場合もあるが、亀甲車の利用を勧めたのは、官兵衛であったかも知れないと思う。
亀甲車とは、文字通り亀の甲羅のように装甲を貼った車の中に人を乗り込ませ、装甲が火矢を通さず、牛の毛皮を使っていて難燃性で、石を落とされて攻撃されてもびくともしない、というものです。
亀甲車は、中国の兵学書に書かれているので、兵学に通じたものなら知っているものでした。しかし、我が国の山城には使用が困難でした。それを朝鮮の平城で使用することを発案するためには、中国の兵学書に精通していて思いついたか、あるいは、明軍、朝鮮軍またはゲリラが使っているのを見て真似したか、または、キリスト教の宣教師から西洋の亀甲車の知識を教えてもらったか・・・・後者であれば、加藤清正はキリシタンではなかったし、嫌っていたから、キリシタンだった官兵衛の方に分がある。
後藤又兵衛が手柄を立て、晋州城は落ちます。
ちなみに、晋州城は福岡城を築城する際に、参考にされた城の一つです。
以上のように、新兵器もうまく利用しつつ、敵方の心理を巧みに圧迫して、城を攻め落とした官兵衛でした。
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