2013年12月19日木曜日

信長が「比叡山」焼き討ちをした理由、その真相

今日のテーマは、信長が「比叡山」焼き討ちをした理由は?です。




悲惨な殺戮の様子は時代劇などでは、よく出てきていた(最近はあまり見ませんね)ので、ご存知

の方もいらっしゃるでしょう。
 
比叡山に鍵括弧がついていることは、読んでいたければわかるようにしています。

(テーマを選んだ背景:黒田官兵衛がキリシタンになった理由を調べている過程で、官兵衛は何で

仏教では救われなかったのかな?と思って、当時の仏教の状況を調べていました)
 
■当時の比叡山を取り巻く情勢
 
 将軍足利義昭と信長の仲が険悪となり、義昭の手回しで、越前の朝倉、北近江の浅井、
 
本願寺などと気脈を通じて信長と敵対したとき、延暦寺もそれらに呼応した。
 
また、比叡山は岐阜から京都までの街道の大きな障害となっていた。
 
この邪魔者を除くというのが、信長の焼き討ちの目的の一つであった。
比叡山の腐敗
 それから、当時の比叡山は仏教の聖地だったというより、むしろ、世俗化が激しく「腐敗」していた
 
ことが伺えます。仏様の権威を笠に着て、一つの武装集団でした。神仏への恐れや敬いの心は力
 
には力を持って戦う戦国の世でもありましたが、信長はイエズス会の宣教師ルイス・フロイスが記
 
録しているように、「無宗教」に近かったのでしょう。あくまで利用価値があれば利用すると。
 
 では、当時の比叡山の様子をみてみましょう。
 
・四階層(院来、堂衆、学生、公人)のうち、最下層の僧兵と呼ばれる「公人」たちが腐敗の中心であった。
・普段は有髪のごろつきのような輩だった。常に叡山の権力を笠に着て、肩を怒らせて山領の年貢の督促などをし、有事の際には有髪を隠すために白布で頭を巻き、黒衣をまとい、武器を手に暴れ、日吉大社の神輿をかついで都大路になだれ込み、要求貫徹するまでデモをやった。

 
・彼らの多くは、叡山の門前町坂本や下坂本にたむろし、女色を漁り、魚鳥を喰らい、遊興費に困って料米、灯油、法儀料、布施などをくすね、不正な賄賂を貪り、あこぎな高利貸などをやり、脅し、かたりの果ては暴力を振るっていた。
・叡山の門前町の坂本は多くの寺や社を中心とした町であった。
 坂本の日吉山権現は全国に多数の末社、分霊社を持ち、延暦寺と共に国内の権勢を誇っていた。そのうえ、湖上の船便の集中する坂本浜を外港として、種々の恩沢を受け、富裕な酒屋、土倉が軒を並べ、七十年前の文亀元年(一五〇一)の大火の傷も癒えて、大津港と繁栄を競っていた。
 
・天台宗の栄えとともに、北陸、東国から大量の荘園年貢米が入り、全国の多数の末寺から得度、灌頂、加行のために集まる宗門の人たち、延暦寺に参詣する団体の人たちで賑わっていた。その人たちのための旅籠、精進料理、接客業者が増え、酒を般若湯、遊女を蓮葉と呼ぶ歓楽の巷が各所に出現していた。
・公人と称する前記の破戒坊主たちは、山門領からの年貢米収納管理のほか、三千僧徒の食糧、消費物資の調達を掌り、警備も担当する役得をよいことに、歓楽の巷で、「天下の嘲弄を恥じず、天道の恐れ顧みざる淫乱」(『信長公記』)にあこぎな生き様に我を忘れていたのである。
■三井寺の焼き討ち
 同じ天台宗ながら、山門派と寺門派の争いで、三井寺(園城寺)が、延暦寺派に焼き討ちされたことは過去に十四回もあったようです。今回、信長によって延暦寺が焼かれたのは、これが最初でした。東塔、西塔から山越えで京へ逃れようとしたのも、待ち構えていた織田勢に片っ端から坊主首をはねられた。有髪の僧兵たちや男女僧俗で首を切られたもの三千人と言われています。
昭和の発掘調査で焼跡から出た謎
 しかし、この焼き討ち事件が本当にあったのかどうか、疑問を投げかける調査があるのです。
 それは、昭和三十一年(一九五六)に行われた滋賀県文化財保護課で、比叡山の発掘調査です。火災で消失した延暦寺大講堂の再建、三十三年の比叡山ドライブウェイ、四十一年の奥比叡ドライブウェイの開通工事を機に行われました。携わった技師の一人兼康保明氏の調査報告書によると、調査は東塔、西塔、横川の三地区で地下遺構や堂塔、坊跡郡跡について行われたました。しかし、延暦寺が「元亀の法難」と称している焼亡の跡だといえるものは、根本中堂と大講堂のみであるということが判明。元亀以前にすでに廃絶しているものが大半を占め、元亀の焼亡を示す例は、きわめて少なかったそうです。出土遺物についても、年代的に見て戦国時代のものはほとんどなく、平安時代の遺物が多く、一部室町時代のものもあるが、いずれも元亀以前のものばかりだったようです。
 (兼康氏)「『多聞院日記』などにみられるように、僧衆の多くは坂本に下り、生活の場もすでに山を離れていたと考えざるを得ない。つまり全山数百の諸堂が紅蓮の炎に包まれ、大殺戮が繰り広げられたとするイメージを生み出すのとは打って変わった、閑散たる光景しか存在しなかったのが、現実である。このようなことは山上の放火・掃討がわずか二、三日ときわめて短期間であったことからもうかがえよう」と報告書で述べておられます。
 では、「比叡山」の焼き討ちはあったのかどうか。比叡山が焼き討ちにあった場合には、京都や琵琶湖沿岸の各地から見えるくらいだったでしょう。京都の大文字焼きのように、山のごくごく一部で火を焚いても遠くまで見えますのに、山全体が一気に焼けたら、それはそれは。しかも、街灯などもなく、自動車も走っていない時代です。夜は、暗かったと思います。ですから、焼き討ちの記録が残っているのは、
・ウソだった(信長の評価を下げたい後世の何者かによる策略か、創作のたぐいか)
・話に尾ひれがついた。
・本当だったが、比叡山ではなく麓の坂本が焼き討ちにあった。
のどれかだったでしょうが、そのうち、最後の肢が近いのではないかと思います。
 『信長公記』に書かれているような放火炎上や大殺戮は、坂本の町に集中して行われ、日吉大社や神輿、西教寺も焼かれ、信長の利用を拒否した僧侶の本坊や宿坊も坂本の町家とともに炎上し、僧侶や町民や遊女もみな捕らえられて、坂本に集めて首を斬でしょう。
 その坂本の復興に、大いに努力したのが、坂本城主明智光秀であり、彼が信長に謀反を起こして自害に追いやったのは、何かを暗示しているのでしょうか。

 
 

1 件のコメント:

  1. 初めまして、鷲谷と申します!

    叡山焼き討ちについての記事を書いたのですが、その際にtakaさんの記事を参考にさせていただきました。

    http://washiya.sapolog.com/e482247.html

    情報量が多く、恐れ入っています。

    特に僧兵の話など。

    また遊びに来ますのでよろしくお願いします!

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