2013年12月4日水曜日

まぐまぐメルマガ「ホンマやろか!?黒田官兵衛」の紹介、大分県別府市の史跡巡り、(おまけ)別府杉乃井ホテルのイルミネーション

今日はちょっと脱線。

来年から大河ドラマで黒田官兵衛が始まります。というわけで、今回は官兵衛の話しです。
写真は、ふくおか官兵衛くん。「軍師官兵衛」福岡プロジェクト協議会のPRキャラクターです。

この姿で描かれた絵をご覧になったことがある方も多いと思います。
有名な合子兜(ごうすなりのかぶと)です。官兵衛は、これは生涯にほぼ一回しか身につけていなかったと言われています。ではいつ身につけたの?(九州)関ヶ原のときでしょ(笑)流行語大賞おめでとうございます(笑)

 

官兵衛の人生で一際輝いたのが、関ヶ原の戦いの頃に、九州での鮮やかな軍事行動でしょう。
これがもとになって、天下を狙ったんではないかとの憶測が生まれ、何か凄いよね、とか、でも天下取れなくて残念だね、とか、いう風な風評被害に見舞われる原因になったんです(笑)

以下が、ダウンタウンの松本人志が黒田官兵衛について語った動画です(動画が削除されてしまっていたら、「松本 官兵衛」などのワードでYou tubeにて検索してみてください)。
https://www.youtube.com/watch?v=J6zUh4VGOVs

黒田官兵衛はどちらかというと、マイナーかも知れません。
歴史ファンは名前くらいはご存知でしょう。

何をやったのか?というのは、

まぐまぐのメルマガ「ホンマやろか!?黒田官兵衛」

を読んでみてください!

さて、今回は、いわゆる九州関ヶ原での官兵衛の戦いの史跡巡りということで、大分県別府にやって参りました。
最近、「おんせん県おおいた」で商標登録したことが話題になっていましたよね。
下の地図をみてください。大分県の地図です。本当に温泉が多いですよね。
特に別府は昔から有名な温泉地でした。


 

別府には杉乃井パレスっていう老舗の旅館があります。有名です。
その客室からは、別府市が一望できます。別府市の「観海寺温泉」にある旅館です。「観海」ということで、別府湾が一望できる眺望が抜群の旅館です。

しかも、私が宿泊したのが海側に面した9階だったので、眺望がよかったです。

客室から官兵衛が大友吉統と戦った石垣原の戦いに思いを馳せるながら、景色を眺めることができました。旅行の費用を出してくださった方に感謝!(自分でお金出せよ、と言われそうですが、すみません・・・史跡巡りはオプションナル・ツアーでした)


 
このホテルが建っているのが、大友軍の本陣付近です(住所で言うと南立石ですので、大友軍の立石砦があった場所に近いです。詳しく言うと、ホテルの駐車場から北の方に細い道を行くと、下の写真のような本陣跡があります))。

写真中の白い仏塔が立っているのが実相寺山、その左隣が角殿山で、それぞれ黒田軍と細川軍の本陣が置かれました。

そして両軍が激突した古戦場はその中間地点(別府市荘園町)にあります。激闘の結果、官兵衛側が勝利します。

地図は、http://www.city.beppu.oita.jp/education2/kassen/ が見やすいです。

■大友義統の本陣跡

下の写真が大友義統の本陣跡です。正確には大友「吉」統ですが。義は足利将軍からもらった一字で、父の大友宗麟も義鎮と「義」の字がありますが、その後、「吉」を秀吉から一字をもらっていますから。

大友家は朝鮮の役で敵前逃亡し所領を没収されます。その後、秀吉が亡くなり、石田三成が挙兵すると、三成から味方すれば豊後国を与えることを約束された大友吉統は、京都から豊後に入り、9月9日に浜脇浦に上陸して(ちょうど、この写真をとった地点から、右の方に行った海岸です)、別府の扇状地を北に一望できるこの台地に陣を構えました。豊後において旧領回復のため、東軍方の杵築城(細川家)の攻撃します。しかし、中津城から黒田官兵衛が出撃してきたことを聞いて、いったん立石砦に引き上げます。

 
 
 
 
 
 
 
 
■黒田官兵衛本陣跡
 
次の写真が、黒田軍・細川軍の本陣が置かれた場所からの写真です。右奥に見えているのが、杉乃井ホテルです。
 
官兵衛は居城の中津城を出撃して、杵築城の救援に向かいます。杵築城は細川家の飛び地で、東軍側でした。大友軍が立石砦に引き揚げたので、官兵衛と細川軍はこの地に本陣を構え、対峙します。別府の中でここ以外にちょうどよい高台はなかったので、この地に本陣を構えるのは当然だったと思われます。
 
 
 
 
9月13日に両軍は激突します。
石垣原合戦です。
激突した別府市は、火山岩が城の石垣のようにころがっている平原であったので、石垣原と言われており、その平原での戦いだったので、石垣原合戦です。

下の写真は、実相寺山から西に行った住宅街の中の公園の一角にある黒田軍の本陣跡の石碑です(ヤシの木がある公園が目印です。訪ねたときには、「石垣原合戦の朱筆の幟がありました)。


この合戦で大友軍が一時優勢になります。
その一つは大友軍の右翼の吉弘嘉兵衛の働きによるものでした。吉弘嘉兵衛は牢人となり、柳河の立花家に寄宿します(立花家も元々大友家の家臣だったので)。
 大友軍の右翼である吉弘嘉兵衛の働きもあり、黒田軍の武将が二人討たれ、大友軍が優勢になります。下の写真は、吉弘嘉兵衛の本陣跡です。杉乃井ホテルを出て、南の方に降りていく道沿いにあります。




ちなみに、黒田軍は主力は長政が率いて関東に出兵しており、手勢が少ない状況で、官兵衛が金庫を開いて急遽集めた寄せ集めでした。
また、大友軍は国崩しと言われる大砲を使っていました。官兵衛は、陽流大筒で対抗しますが、苦戦します。

しかし、黒田軍の井上之房が一騎打ちをして、吉弘嘉兵衛が深手を負います。これにより、息を吹き返した黒田軍は一気に大友軍を崩します。大友吉統は結局黒田軍に投降します。吉弘嘉兵衛は自害します。現在、吉弘神社に祀られています。

 
 

■大友家の関ヶ原

・当初、徳川方につこうとした大友吉統

 慶長三年(1598)に秀吉が死去し、翌年に大友吉統は許され、江戸から京都へ移り、本能寺の一室に側室と男児正照とともに住みます。しかし、慶長五年(1600)、石田三成ら大坂方から末子正照と側室を大坂城に連れ去られ人質とされてしまいます。吉統は、同年九月、安芸国の大畠に下り、毛利輝元から兵船と鉄砲隊100名を与えられ、東軍徳川方から西軍に変更し、豊後入りを決意させられてしまいます。

 その途中、柳川の立花宗茂のところに身を寄せていた吉弘嘉兵衛が、江戸の徳川家康や秀忠に仕えていた吉統の長男能乗に仕えるために小倉から乗船し、周防上関で吉統に出会い、東軍に味方するように説得します。しかし、吉統はそれを聞き入れず、やむなく、嘉兵衛は江戸行きを中止して、吉統に従うことにしました。

・吉弘嘉兵衛の辞世の句

明日は誰が草むす屍や照らすらん 石垣原の今日の月影

・大友吉統のその後

 大友吉統は自害しようとしたが、田原紹忍に止められ、黒田如水に投降した。吉統は中津城から江戸に送られ、徳川家康から出羽の秋田実季に預けられ幽閉された。
  
・吉弘嘉兵衛の首

 「統幸の首」は首実検の後「石垣原」の獄門台にに晒されたといわれています。
 統幸の戦死を聞いた「吉弘氏」の菩提寺「金宗院」の住職は「統幸」の霊を弔うため、密かに石垣原へ「統幸の首」を取り戻しに行きました。 「統幸の首」は風に光るカヤ原の中に変わり果てた姿で晒されていました。住職は涙ながらに「統幸の首」を背負い、鹿鳴越より奥畑を経由しやっとの思いで統幸の故郷「長岩屋」に帰ってきました。前の長岩屋川で統幸の首を洗おうとしました。すると「統幸の首」はカツと目を開き 「ああ! 住職よしな吉名・やめなさい)」と叫んだのです。住職は大変驚き洗うのをやめました。そして寺(金宗院)へ持ち帰り供養しました。 それからいつしか人々は、首を洗った此の場所(長岩屋川)を「吉名川」と呼ぶようになりました。

 吉弘嘉兵衛は、現豊後高田市松行の金宗院に葬られました。また、別府市石垣西六丁目に吉弘神社があります(上述のとおりです)。この神社は大正11年(1922)に拝殿が建立され、拝殿の裏手西側には嘉兵衛の石柱の墓や肥後の細川家が建立した石殿が安置されています。毎年、春と秋の例祭には、吉弘家一族の方々が、各地から参集されていたそうです。

 また、別府市石垣三丁目には、吉弘嘉兵衛の菩提寺太平山宝泉寺があり、この寺には、嘉兵衛の位牌や肖像画が保管されています。

■吉弘嘉兵衛の死

 彼が命をかけてつかもう、守ろうとしていたものは何だったのでしょうか?
 主家の失地回復のために不利と知りつつ奮戦した吉弘嘉兵衛を見て、皆さんはどう感じられるでしょうか?
 単なる戦国時代(というか桃山時代ですが)の合戦の一場面として見過ごされるものに過ぎないのでしょうか?
 
 立花家で二千石をもらっているんだから、そんなに頑張ってリスクが嵩いことをチャレンジしなくても・・・嘉兵衛ほどの武将であれば他にも仕官口はあったでしょうに・・・と思われるでしょうか。
 あるいは、負けたのだから意味がないよ、残された家族はどうするんだよと思われるでしょうか。

 私は、それも理解できます。いくら何でも命は惜しいし、食いっぱぐれは避けなければならない。ただ、忠臣蔵ではないですが、彼の主君への忠義の心で、何とかしてあげたいという気持ちもあって、その純粋な気持ちに従って潔く生きたし、仮に負けたとしても多勢の敵と互角に戦って戦死すれば名を残すことができるからそれでよいと思います。

 もちろん、大友家の旧領回復という大功を立てて、出世しようという功名心もあったかも知れません。忠義のために散ったというのは、実は吉弘嘉兵衛本人からしたら、不本意かも知れません。

 吉弘神社は、嘉兵衛の次男正久が使えた細川家が建立したもので、関ヶ原の戦いのあとに豊前国に入封した細川家によって、吉弘嘉兵衛を祀ることで、その反感を緩めるのに利用された可能性もあるでしょう(細川家はこのあと肥後熊本に入封した際にも、加藤清正を神格化して統治に利用しています)。また、忠義に殉じた武士を顕彰することで、統治に利用しようとした可能性もあります。

 ただ、武士として不利な状況にも負けずに、なんとかしよう、自分が主家をなんとか支えようという気概。この気概からは学ぶことがあるのではないでしょうか。自分だけは損をしたくない、損をしないようにうまく世渡りして勝ち組になりたい、それ以外は負け組だという風潮の中で、損得勘定だけではなく、それを超えていこうとしたかも知れない嘉兵衛を偲び、手を合わせてきました。

※石垣原合戦の様子について、江戸時代に書かれた「常山紀談」の記述を、付録として末尾に掲載していますので、興味がある方はご覧下さい。

■加藤清正像(別府市旗の台)

 
 
 次に、行ったのは、黒田軍の援軍として別府までやってきた加藤清正像です。彼は三千余りの兵を率いて、熊本から別府までやってきました。清正は家康に対して、自分も会津征伐に同行したいと願い出ますが、家康から懇切に諭され、九州の東軍方は黒田官兵衛しかいないから、彼の味方をしてやってくれと言われ、しぶしぶ熊本に戻ります。そして、中津城から出撃して大友軍と交戦中との報せを受け、熊本から急いで官兵衛の加勢に向かうわけです。

 湯布院から山を超えて別府湾を望む鶴見岳のあたりまで来て、戦いの様子を見てみると、黒田方が優勢。よし、引き返しても大丈夫だということで、熊本に引き返します。そのときに物見をした場所が、旗の台といわれ、現在、加藤清正の像が立てられています。彼は日蓮宗の信者だったので、日蓮の像と南無妙法蓮華経の旗印が脇にあります。別府から湯布院に抜ける県道11号沿いにあります。鶴見ロープウェーより少し湯布院方面に登ったところの茶店の脇にあります。
 
 行ってみて気づいたのは、清正の眼がぎろっとしていることでした。不動明王かと思われるくらい眼光が鋭い。戦さの最中なので、気が張っていたからでしょうか。彼は、日蓮宗ということもあり、肥後のキリシタンを弾圧します。このことはまた、後日。

■(おまけ)杉乃井ホテルのイルミネーション

 それではお待ちかねのイルミです!
 杉乃井ホテルの前の道路には、200~300メートルくらいにずらーりとイルミネーションが並んでいます。
まさに夢の世界です。福岡市の警固公園みたいに人で混雑していないので、非常に快適でした(寒かったけど)。
 なんと、毎年、進化しているらしいです。非常に素晴らしいので、近くに行かれる際には寄って行かれるとよいでしょう。

 
 
 
 
 
 
 
 
 

では、皆さん、またお会いしましょう。

■付録~「常山紀談」巻十五 330項 石垣原の戦い

・この逸話は、黒田側の視点から、特に荒巻軍兵衛、井上元房(之房)等に焦点を当てている。

・大友義統が木付(杵築)城を攻めると聞いて、如水は後巻(城を包囲する敵をさらに外から包囲すること)をしたので、大友は立石に退き、石垣原に先陣を押し進めた。黒田の侍大将、久野治右衛門は、若年のため曾我部五左衛門(五右衛門)を同伴させていた。敵四、五〇〇〇ほどが立石の民家を背後にして待ち構えていたところ、これを久野が遥か遠くから見て、「かかれ」と命令した。これを、曾我部が「今しばらくお待ちください。焦っては勝利できません。馬から下り立って一息つかせ、兵たち一同に弁当をとらせ、味方が後続するときに突撃して、一戦するべきです」と言って止めたが、久野は聞き入れなかった。久野の従者の荒巻軍兵衛という者は豊前の地侍であったが、年少の頃は名を「宮松」といって、十五歳にして既に功名を知られていた剛勇の者であった。この荒巻が、「五左衛門の言葉はもっともだ。馬にぶつかり倒して敵を蹴散らすというのは、相手によることだ。今日の敵は国替えの時に知り合った者たちで、皆老練だ。近年は落ちぶれていたので、この兵乱を自分たちの死に時と覚悟して、槍を膝の上に置いて静まり返っている。これに一騎や二騎がばらばらと走り寄って対決したところで、どうして勝つことができようか。槍が折れるほどの戦いでなければ、勝利は叶わない」と言って、馬から飛び降りて久野の馬の口に近づき轡を掴み取って、「若気とはいいながら、あまりの焦りよう。後陣に先を越されるというのなら恥にもなりましょうが。後ろの味方が迫った時に攻めかかって突き崩すのが良かろう」と言った。

しかし平田彦右衛門という者が馬上から、「いやいや、後陣を待とうすれば、井上・野村は小賢しい男たちだから、必ず先を争うだろう。大友の者たちは杵築で疲れて、再びここに来たのだ。いざ進め進め」と言ったので、荒巻は怒って、「平田よ、おまえと私は共に豊前の者だから、おまえの力量は知っている。今井の浜の戦さでお前を追いかけたとき、鎧の押付を斬った疵は今も残っているだろう。その後、「あの男の健気さゆえに、仕留めませんでした」と言ったから、俸禄を得られるようになったものを、お前は私のお陰だと喜んでいたのを忘れたのか」と言い捨てて、馬に乗って先駆けて行った。続いて来た二十騎ほどを率いて攻めかかった。三手に分かれていた一陣を付き崩した。久野はせいていたので少しも躊躇することなく、真一文字にきりこんで戦ったが、大友の兵たちは度々のことで慣れきって、亡き主君の招きに従ったこの合戦で、今日を最期の日と思って、片膝ついて待ち構えていたので、久野主従五十騎は一所で討たれてしまった。

曾我部は久野が討たれていたところに横から割って入って討たれた。平田は久野が討たれるのを見て、馬を返して引き退いた。荒巻は、敵が先を競って攻めかかって来るのを見て、「ここは撤退しよう」と、人を集めようとしたが、敵が激しく進んでくるのを見ると、討ち取った首を全て捨てさせ、馬を急かせて退却させた。荒巻は殿を受け持って退いたが、久野が討死したことを知らなかったので、その日の功績は無駄になってしまった。

黒田の二陣の侍大将は井上九郎右衛門元房(之房)<後に周防と称す>・野村市右衛門(祐直)<後に隼人と称す>は遥か後方で鬨の声を聞き、「この山に登って陣立てを見て招こう」と、井上は手下の者に命令して、さらに進んで行った。野村が、「この先で戦いが起こっているのは明白だ。何を見極めることがあろう」と言ったが、井上の陣が固まっていて通してくれなかった。「いま少し軍陣を先に進み出させよ。広い場所に陣を置こう」と言ったが、これも聞き入れてもらえなかったので、独り言を言いながら怒っていたところ、井上主従三騎が小山に乗り上げて、指物を抜いて味方を招き、陣を進めたのだった。

―井上は、唐冠の兜に、鳥毛の棒の指物をしていたという。また、佩盾(膝鎧)を取り外して捨てたので、井上の手下の者が、「これは激戦だ」と勇み立ったという。―

井上・野村は、「敵はみな、徒歩だ。馬の駆けやすい場所だからと騎馬を頼りにしても、決死の覚悟の敵には軽々しく攻めかかり難い」と、皆で馬から下り立ち、「勝ちに乗じている敵で、特に譜代重恩の侍どもは、今日を最期と覚悟しているから、敵が攻めかかって来ても、こちらから進んで応戦してはならない。敵を待ち受けて戦え。もし敵が崩れても、隊列を乱して追撃してはならない」と命令して、静かに攻め寄せて行った。大友の軍兵はこれを見て、「方々から散り散りに攻めて来たなら、たちどころにつき崩せるだろう」と考えていたが、誤算だった。

野村は朝鮮で漢南の戦に功名をあげ、膝に傷を負い、歩行が不自由になっていたので、「身体不自由な者でござるゆえ、馬に乗ってござる」と言って命令した。

石垣原は、野原の中央に、高さ一丈余りの石垣土手が六、七町ほども続いていた。井上・野村は、「石垣をこちらのものにすれば、戦いに勝てる」と、進んで行ったが、敵も同じく進んで来て、石垣を越えようとしたので、突き崩した。しかし、逃げる敵を追いはしなかった。井上は槍を横にして味方を抑え、野村は馬で巡回して隊列を整えた。大友の侍大将、吉弘嘉兵衛(統幸)・宗像掃部はこれを見て、「これでは負けてしまう。敵が勝ちに乗じて隊列を乱したところを追い詰めようと思ったが、どうしようもない。とにかく討死しようと覚悟したのだから、さあ、攻めかかろう」と、歩兵二〇〇〇ほどで静かに進み寄って行った。井上・野村は、これを見て少しも慌てず、片膝ついて構え、自分たちから攻めかからずに待ち構えた。間近に詰め寄ってきてから散々に突きあったり斬り合ったりして、大友勢が一町ほど引きのいても僅かに追いかけることもしなかった。もとの場所にひざまづいて心静かに息継ぎした。大友勢は再び攻めかかって来て、ここを分け目と火花を散らして戦ったのだ。

吉弘が薙刀を振り、今日を最期と活躍するのを井上が見ると、「いざ、手合わせ参ろう」と声をかけたので、吉弘も笑ってわたりあったが、草摺の端を十文字の槍に突かれて、重傷だったので少し退いたところを、小栗治右衛門の従者で弓を持っていた者が体の真ん中を射抜いた。吉弘は戦意盛んだったがとうとう逆転叶わず、首を小栗に討ち取られてしまったのだった。

―また、一説によると、吉弘は黒革で威した鎧を着て、熊毛でしころを飾った兜をつけ、三尺ほどの刀で、井上と馬上で渡り合った。馬から突き落とされたとき、脇差を抜いて手裏剣のようにして投げると、井上の左の腿に当たった。その間に小栗が引き組んで、吉弘の首を討ち取ったという。

―また、一説によると、吉弘と井上は、吉弘が豊前の中津に一年いたときに親交が深くなったので、この日、井上は吉弘の胸板を二度も突いたが、鎧が堅かったので裏まで貫けなかった。今度は吉弘の内兜を突いたところ、十文字の刀の側面が忍の緒(兜の、顎で結ぶ紐)を切り、兜が傾いて視界を遮ったので、少し後ずさりしたのを、吉弘の左の脇から青い下着がみえたのを目掛けて脇腹を突いたので、吉弘も遂に討ち取られたとも言われる。

また、この戦いの跡地に吉弘の幽霊が現れ、往来する人に祟りをなしたので、吉弘に縁者が石垣原の傍ら、別府という所に吉弘の死体を葬ったのだった。別府・清田・浜田の百姓が瘧(おこり。伝染病の一つで、高熱を発する)に悩まされたとき、米を供えるとたちまち治ったのだった。(※武者物語の逸話です 引用者注)

吉弘の嫡子は加藤清正に仕え、次男は細川忠興に仕えたが、父の死んだ場所を見ようと、別府に言ってその墓標を拝んだ。だが、米を多く供え過ぎたので鳥が集まって来て、糞で汚れてしまっていた。そこで、「今後は武具を備えたら治すようにしてください。そうでなければ治さないようにしてください」と言うと、それ以来、米を供えても効験は現れなくなった。木刀を作って供えると、効験があったという。

宗像掃部も、井上の従者、大野勘右衛門と取っ組みあったときに、勘右衛門の弟、休也という法師武者が走り寄って来て、掃部の脇腹に刀を突き立て、「えいや」と刀を跳ね上げたので、とうとうそこで討ち取られてしまった。

 大友の軍勢は、突き崩されてはさっと退き、また押し寄せ攻めかかったが、井上・野村は追いかけず、もとの場所に跪き、再び大友勢が攻めかかって来たので、立ち上がり槍を突いて退けるということを、何度と知らず繰り返した。大友の軍勢はとうとう負けて、残りの兵が少なくなるほど討ちとられしまったので、僅かな人数のまま立石に退却した。

そして吉統は、戦力がなくなって、如水に降参したのだった。

 
 

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