2013年12月23日月曜日

秀吉がバテレン追放令を出すまで~蜜月から追放へ~




■秀吉とイエズス会の蜜月

秀吉は、キリシタンに対し、厚意を示していたようです。



 
一五八四年「日本年報」には、
「今羽柴秀吉殿・・・(中略)・・・はただデウスの教えに反対しないばかりではなく、大いに我が聖教を尊び、坊主の欺瞞の宗旨よりも真なるものと認め、キリシタンに信頼し、側近にある大身たちの子息がキリシタンになることと聞いて喜んでいる。ジュスト右近殿(高山右近 引用者注)については、毎日城中で語り、彼を称賛し、その模範的生活に驚嘆し、青年でかくも欲を制するものは珍しいと考えている」
とあります。

秀吉の大奥にさえ幾人かのキリシタンがいたくらいでした。
しかも、彼らは公然と信仰を続け、秀吉はこれを信用し重んじていたようで、ヨーロッパ風の名前を付けて呼び合っていたようです。

天正十四年二月十三日(一五八六年四月一日)に、秀吉自ら信長の一子、ならびに諸将を同伴して、突然大坂の天主堂を訪ねて、パードレと気軽に談話を交え、

「予は、おぬしが教えについて語ったところことごとく満足し、キリシタンとなるについて、大勢の妻をもつことを許さぬ戒律以外には困難を感ぜぬ、もしこの点を緩くすれば、予もまたキリシタンとなるであろう」
と秀吉一流の冗談を飛ばし、出された砂糖菓子をむしゃむしゃ食べたと言われます。

イエズス会の副管区長コエリョは、北政所を通じ、以下のことを秀吉に願い出ます。

1、   全領内で自由にデウスの教えを説き、一切妨害を受けない。

2、   我が駐在所(カーサ)及び天主堂に対して、坊主や僧院の一般に課された義務を免除し、兵士の宿泊所とすることを免ずる。

3、   外国人としての一切の義務を免除する。

以上三箇条の特許状を願い出たところ、
秀吉は直ちにこれを容認し、特許状二通に自ら署名して下げ渡しました。

 

その後、まもなく(天正十四年三月十五日(一五八六年五月三日)、コエリョは、大坂城の秀吉を訪問して異常な歓待を受けています。

大坂築城には、三十余ヶ国の大名を動員して工事を進め、天正十二年八月に秀吉は大坂城に移りました。

コエリョはパードレ四名(コエリョ、フロイス、オルガンチノ、セスペデス)など合わせて三十余人の同行を引き連れて長崎を発し、キリシタンの安威了佐、キリシタン嫌いの施薬院全宗両人の案内で登城しました。
高山右近がキリシタンだったため取り持ち役を命じられ、フロイスが通訳となり、秀吉に面会しています。

秀吉がパードレから近い場所に座って、彼らと話し、その心中を話したことに人々は驚いた、とあります(当時は、そうとう離れた場所に座っており、直接言葉を交わすことは珍しいことでした)。

日本在住のパードレたちが教えを説いて弘める以外に他意がないことを称賛し、

「天下を平定したら、美濃守(秀長)に譲り、自分は朝鮮、シナ征服を考えている。
そのために二千艘の船を作る予定であるが、パードレたちに望むところは、十分に武装した大帆船二隻を入手する斡旋をしてもらいたい。
対価は望みに任す。
いったんシナ人が帰服してしまえば、別に野心はなく、その時になって各地に聖堂をたて、皆がキリシタンになることを命じて日本に帰る。

また日本の半分、あるいは大部分をキリシタンとすべきだ」とさえ言っています。

ついで、他の随行者たちを呼び寄せ、城内をくまなく案内させ、ある場所では、秀吉みずから案内に立って、天守閣に登って工事について説明したりした。最後に酒肴を供し、みずからパードレやイルマンらにサービスをした。
これは、秀吉がキリシタンに厚意を寄せていることを示していました。


■一転して、伴天連追放令の発令


しかし、このことがあってわずか一年後に、伴天連追放令が下ります。

その変化は急転直下という感じでした。
 
一説には、キリシタンの危険性を彼なりに感じていたが、時期尚早であると判断して、
九州平定が成功し、天下取りの確信を得るまでは黙っていた、とする見方もあります。

 

熱心なキリシタンとして、大名や家臣たちへの布教をし、官兵衛や小西行長らも、彼の勧誘がきっかけでキリシタンになります。それだけではなく、神社仏閣を破壊するラジカルな行動をとったことが、反キリスト教勢力(秀吉の側近の施薬院全宗ら)の反感を買ったのでしょう。

追放令によって、キリシタンであった官兵衛の運命も暗転していくことになります。
そういう意味で非常に重要な事件だったと私は思います。

2013年12月22日日曜日

黒田官兵衛に天下への野望があったかどうか

■序

黒田官兵衛に天下への野望があったかどうか、これは重要な問題です。

なぜかというと、この問題こそが官兵衛のドラマチックなところだからです。
天下をとれるだけの智謀があったのに、チャンスを逃して天下を取り損なった、二流の人・・・
なんていわれてしまっている、官兵衛。

そんな意図がなかったのに、勝手に祭り上げられ、貶められている。
心外なのではないか、と思います。なんで二流やねん・・・(姫路弁で)

■背景、石田三成挙兵まで

秀吉が亡くなり、朝鮮から引き上げてくる諸将。
秀吉は亡くなる直前に、諸将に誓紙を提出させて、秀頼を盛り立てて豊臣政権の存続を図ろうとします。

ナンバー2で諸大名の中で抜きん出ていた徳川家康。一方、朝鮮の役で諸将は傷ついていました。財政的にも。莫大な戦費を負担し、朝鮮の抵抗運動にも悩まされて、犠牲を強いられました。

ナンバー1がいなくなった天下は、ナンバー2の手に渡る、これは道理です。
しかも、家康と前田利家は、朝鮮に渡海していませんでした。そのため、名護屋城在城の兵糧負担だけで済んでいます。家臣団は無傷でした。しかも、家康は豊臣政権下で筆頭の250万石。
豊臣政権の直轄領の石高に迫るものでした。一方、前田利家は80万石前後。

家康が中心となって豊臣政権を運営していくのか、あるいは、家康自身が天下を動かすのか(豊臣政権は傀儡となるのか)。

ただ、家康は慎重に事を進めます。もし、他の大名たちが、豊臣政権の下に結集し、家康の排除に動いては、勝目がありませんでした。毛利120万石、上杉100万石、前田85万石、宇喜多50万石・・・彼らが全部敵に回ってしまってら、いくら家康でも勝てなかったでしょう。

だから、慎重に時を待った。

諸将の中で、家康へ天下が帰趨することを感じていました。官兵衛も早くから家康への接近を図っています。

一方、豊臣政権を盛り立てていこうとする勢力や、家康に天下を渡して自分が風下に立つのを潔しとしない勢力もいました。

石田三成をはじめとする奉行です。また、福島正則や加藤清正ら秀吉子飼いの大名も豊臣政権自体の存続を図ることには賛成でした。他にも家康の風下に立つを潔しとしない上杉、宇喜多などもいたのです。

そこで、家康は囮というか、スケープゴートが必要でした。その囮を利用して、豊臣政権との敵対という形をとらず、豊臣政権の家臣同士の戦いで、自分に敵対する勢力を、自分についてくる勢力を利用して叩く。石田三成が囮として最適でした。




後世、石田三成をひどい人間のように描いていますが、それは誤りです。
確かに、おとなしくしていれば一大名として存続し、行政に非常によい手腕を発揮した名君として語り継がれていたことでしょう。ただ、どうしても大恩ある秀吉の遺言をないがしろにする輩が許せなかった。武士として、義理を果たすことに殉じただけです。家臣の島左近には、そんなに義理を通しても・・・ちょっと子供じみてない?と言われてしまっています。

江戸時代には、石田三成自体はひどい描かれ方をしたままでしたが、
三成のように忠義を尽くした人は顕彰されました。
世渡りは下手だったかも知れません。青臭かったかも知れません。
でも、そういう人が必要なんだと思います。

司馬遼太郎さんは、「よくもまあ、大会社の課長クラスの人が、頑張って役員クラスの人を集めてきて、戦ったものです」と慨嘆されているように、三成は、仲が良かったと言われる上杉と内通し、毛利一族(毛利、小早川、吉川)、宇喜多秀家、小西行長、島津義弘、長宗我部盛親、丹羽長重などを反家康方に引き入れることに成功します。

家康が会津の上杉征伐に上方を留守にしたときに、石田三成が家康打倒を掲げて、挙兵します。

■官兵衛の動き@九州

このとき、官兵衛は中津(現 大分県中津市)にあって、長政を家康に付き従えさせる一方、上方の情勢を中津に知らせる早舟を組織して、アンテナを張ります。

結果どうなったか。皆さんご存知のとおり、東軍が勝利。家康は、徳川秀忠が率いる本隊が本戦に間に合わないという不利があったにもかかわらず、毛利方の裏切りを誘って、戦局の不利を逆転し、圧倒的な勝利を得ます。



一人息子の黒田長政は、福島正則らの豊臣恩顧の大名を、反三成ということで家康方に結集する工作を成功させます。当時、大坂城には諸大名の人質がいて、これを石田三成は拘束していました。東軍についたら、人質を殺されるかも知れない危険性がありました。それでも、福島正則らの豊臣恩顧の大名は家康についた。長政の工作も功を奏しました。




一方、九州にいた官兵衛は、西軍だらけの九州で、東軍につくことを前提に、西軍の諸城を攻めるため果敢に出撃します。

当初、家臣たちは出撃には難色を示しました。敵だらけで、味方は熊本の加藤清正だけ。できるだけ、中津城の防備を固めて、籠城したほうがいいでしょう。しかも、黒田家臣団の主力は長政について上方に行っていますので、中津に残っているのは、僅かな兵だけです。

官兵衛は、「お前たちは何年俺に従ってきたのか。俺の力量を知らないのか。こんな兵力の劣勢は、跳ね返せない俺だと思っているのか!」と、金蔵を開いて、日頃のケチケチ生活で溜め込んだお金をばらまいて牢人をかき集め、三千人以上の兵を集めて、豊後方面に向かって出撃します。

戦いの状況は長くなるので、省略しますが、官兵衛は豊後を平定後、毛利(森)勝信の香春岳城を落とし、一時西軍についた鍋島勝茂(直茂)を東軍に勧降し、毛利秀包の久留米城を落とし、柳河城の立花宗茂を降伏させ、加藤清正と合流して、薩摩の島津攻めをするために南下します。
八代まで南下したとき、関ヶ原の合戦に勝利した家康の停戦命令が出され、停戦して中津に帰ります。



■官兵衛の意図

ここで、官兵衛は破竹の勢いで、九州を席巻したように見えますが、実は、関ヶ原の戦いが半日で決着したことにより、西軍についた諸大名が味方の上方での敗北を知り、所領の安泰を図ろうとしたことにより、一刻も早く東軍の官兵衛に降ってきたので(柳河城の立花宗茂は頑固に抵抗しましたが)、有利に戦いを進められたのです。決して彼自身の軍略によって、九州を席巻したわけではありませんでした。

『黒田家譜』には、関ヶ原の戦い後、官兵衛が長政に語る場面が描かれていて、

もし、東西両軍がにらみ合ったまま戦況が膠着していたら、九州を平定してから、中国を制圧し、上方に侵攻して、家康公を助けようとしたと書かれています。

もちろん、『黒田家譜』は幕府に提出するものだったので、「家康公を助けようとした」というのは、本当かどうか分かりませんが、チャンスがあれば、中国地方も調略で落とし、出身地の姫路あたりに上陸して、大軍を擁して上方に攻め入ろうとしていた、という戦略を描いていたということでしょう。

官兵衛が天下を狙っていたという説では、これを東軍が勝っても、それを叩けば勝利して天下がとれる、と官兵衛が思っていたと主張します。

しかし、本当にそんなことが実現するのでしょうか。

『黒田家譜』には、家康公が負けたら天下がまた大乱になる。それを望んでいないから、自分が九州から上方に駆けつけて家康を助けたいと、長政に言ったとされています。

同じく、『家譜』には、若い頃は大功を立てて出世しようとしていたが、老成して、そのような名利(名誉欲や利益欲)は棄てて、天下万民のため平和な世の中を、しかも、皆が住みやすい世の中を作ろうしたことが読み取れる箇所があります(官兵衛晩年の記述)。
それを実現するためには、家康に天下をとってもらうしかない、と思ったかも知れません。

いやいや、幕府に提出する『家譜』だから、綺麗事を書いているだけだよ、という方もいらっしゃるでしょう。

しかし、官兵衛の発想はやはり変わっていて、現代人に割と近い。宣教師から聞いてであろうキリスト教や西洋の思想の影響もあると思います。私たち現代の日本人も、同様の思想の影響を受けていますから。乱暴な言い方をすれば、源流は同じ。

たとえば、一夫一妻の愛妻家、殉死の禁止(殉死をするくらいなら、次の当主に仕えよ)、上に立つ者は家臣・領民を畏れよ(家臣・領民が困るように主君ではダメ)、朝鮮の役でも朝鮮の民を慈しみ手懐けよ(武威で脅していては、返って反撃にあるだけで、統治できない)・・・etc

ということからも、平和な世の中を作るという大目的があって、
次にそれを誰が引っ張っていくのか(手段)、それに一番近いのは家康、
多分家康が勝つだろうけど、もし家康が倒れたら、俺が何とか実現する。

決して、どす黒い野望ではなく、ベリーホワイトな営み。
これが、官兵衛の本意だったと思います。
もちろん、人間ですから欲もあって、家康に恩を売って、長政以下の子孫により大きな領土を遺してやりたい、だから、できるだけうまくやれば、一カ国以上もらえるだろうと踏んでいたでしょう。

果たして、先見の明があった官兵衛は、望んだとおりの世の中が訪れます。
官兵衛に残されていた時間は、あと四年あまりでした。

2013年12月20日金曜日

高山右近の最初の試練

■高山右近の紹介

高山右近を皆さんご存知でしょうか。戦国時代~安土桃山時代のキリシタン大名です。歴史に関心がある方なら、絶対に聞いたことがある名前だと思います。

彼の父母はキリシタンであり、彼自身も若いころに受洗した。武将としても信長や秀吉に愛されたが、
秀吉が伴天連追放令を発令してから、彼の人生が暗転し、所領没収→加賀前田家お預け→フィリピンに追放・・・となってしまいます。

■訪れた試練

時間をさかのぼって、順調に見えた彼の人生に最初の試練が訪れたのが、26歳の時。

摂津高槻城主だった高山右近が仕える摂津国の領主荒木村重(居城有岡城(伊丹城))が織田信長への謀反をおこし戦いをいどむことになります。

すでに、摂津の西隣の播磨国には秀吉を司令官として攻略が進んでおり、このままでは秀吉が退路を絶たれ、毛利と村重らの挟みうちにあって危険な状況でした。

荒木村重は信長の信頼も厚く、黒田官兵衛とも親交があった人物ですが、諸事情があり織田方と対峙していた毛利方に寝返ります(寝返った理由は諸説あります)。

右近は村重の信長への謀反に反対するものの、高山右近は子供と妹を荒木村重に人質として差し出し忠誠を誓います。

織田信長は荒木村重を攻めるため、その通路である高槻城主高山右近に勧降工作をします。信長は右近が金や領地で釣れないと知っており、別の有効な方法を繰り出します。

それは、高槻領内のキリスト教神父を捕らえ、もしも右近が 村重に従うならば、神父達を殺害すると伝えてきます(一説には畿内全域の神父たちを殺害するぞと脅された)。

■右近の中の迷い

この時、右近は「信長様なら殺戮をやりかねん。しかも、一度裏切ったら絶対に許してくれない。」
 
「しかし、主君の荒木村重殿への忠義もあるし、村重殿を裏切れば差し出した人質も殺されるだろう。」
 
葛藤、迷いが生じて悩みます。
 
尊敬していたイエズス会員・オルガンティノ神父に助言を求めます。神父は「信長に降るのが正義であるが、よく祈って決断せよ」とアドバイス。

高槻城内でも意見が二つに割れます。

■右近の決断
 
彼は、彼自身の良心に従う決心をするのです。

頭を剃り領地と城を明け渡し、従者をもつけず信長の前に現れます。
 
この政治の世界との絶縁を示すこの行為は、右近を思いもよらぬ結果へと導くことになるのです。

彼は信長に許され、所領を安堵されただけでなく、荒木村重にさしだした人質も命が助けられるという、非常に幸運な結果となります。

人生最大の危機に直面して、右近は良心の声に耳を傾けることによって乗り越えました。

その後、彼はより一層キリスト教信仰に邁進していくことになるのです。

■なぞ

しかし、なんで荒木村重は人質を生かしたんでしょうか。
黒田官兵衛も村重に織田方に戻るように説得に行って捕まりますが、生かされます。どうして生かされたんでしょうか?


なぞです・・・
 

■関連記事
 
官兵衛は一年間村重に拘束されます。土牢のようなところだったと言われていますが、確証はありません。
 
その点で、有岡城が落城して、官兵衛が拘束から解放され、有馬の湯で湯治をして快復してから、4年後に、出家した村重(道糞と号した。道端のくそと卑下)と書状を交わしています。
 
その書状は戦前の歴史書には載っていたようですが、最近、博物館の調査で文献が発見されたようです。
 
http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201312/0006542207.shtml
http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201312/0006542207.shtml
 
もしかしたら、官兵衛が過酷な状況に置かれたのは、創作だったかも知れません。それがわかったら、世紀の大発見!(にはならないか・・・)個人的にはびっくり!!!!くらいでしょうか(笑)





2013年12月19日木曜日

信長が「比叡山」焼き討ちをした理由、その真相

今日のテーマは、信長が「比叡山」焼き討ちをした理由は?です。




悲惨な殺戮の様子は時代劇などでは、よく出てきていた(最近はあまり見ませんね)ので、ご存知

の方もいらっしゃるでしょう。
 
比叡山に鍵括弧がついていることは、読んでいたければわかるようにしています。

(テーマを選んだ背景:黒田官兵衛がキリシタンになった理由を調べている過程で、官兵衛は何で

仏教では救われなかったのかな?と思って、当時の仏教の状況を調べていました)
 
■当時の比叡山を取り巻く情勢
 
 将軍足利義昭と信長の仲が険悪となり、義昭の手回しで、越前の朝倉、北近江の浅井、
 
本願寺などと気脈を通じて信長と敵対したとき、延暦寺もそれらに呼応した。
 
また、比叡山は岐阜から京都までの街道の大きな障害となっていた。
 
この邪魔者を除くというのが、信長の焼き討ちの目的の一つであった。
■比叡山の腐敗
 それから、当時の比叡山は仏教の聖地だったというより、むしろ、世俗化が激しく「腐敗」していた
 
ことが伺えます。仏様の権威を笠に着て、一つの武装集団でした。神仏への恐れや敬いの心は力
 
には力を持って戦う戦国の世でもありましたが、信長はイエズス会の宣教師ルイス・フロイスが記
 
録しているように、「無宗教」に近かったのでしょう。あくまで利用価値があれば利用すると。
 
 では、当時の比叡山の様子をみてみましょう。
 
・四階層(院来、堂衆、学生、公人)のうち、最下層の僧兵と呼ばれる「公人」たちが腐敗の中心であった。
・普段は有髪のごろつきのような輩だった。常に叡山の権力を笠に着て、肩を怒らせて山領の年貢の督促などをし、有事の際には有髪を隠すために白布で頭を巻き、黒衣をまとい、武器を手に暴れ、日吉大社の神輿をかついで都大路になだれ込み、要求貫徹するまでデモをやった。

 
・彼らの多くは、叡山の門前町坂本や下坂本にたむろし、女色を漁り、魚鳥を喰らい、遊興費に困って料米、灯油、法儀料、布施などをくすね、不正な賄賂を貪り、あこぎな高利貸などをやり、脅し、かたりの果ては暴力を振るっていた。
・叡山の門前町の坂本は多くの寺や社を中心とした町であった。
 坂本の日吉山権現は全国に多数の末社、分霊社を持ち、延暦寺と共に国内の権勢を誇っていた。そのうえ、湖上の船便の集中する坂本浜を外港として、種々の恩沢を受け、富裕な酒屋、土倉が軒を並べ、七十年前の文亀元年(一五〇一)の大火の傷も癒えて、大津港と繁栄を競っていた。
 
・天台宗の栄えとともに、北陸、東国から大量の荘園年貢米が入り、全国の多数の末寺から得度、灌頂、加行のために集まる宗門の人たち、延暦寺に参詣する団体の人たちで賑わっていた。その人たちのための旅籠、精進料理、接客業者が増え、酒を般若湯、遊女を蓮葉と呼ぶ歓楽の巷が各所に出現していた。
・公人と称する前記の破戒坊主たちは、山門領からの年貢米収納管理のほか、三千僧徒の食糧、消費物資の調達を掌り、警備も担当する役得をよいことに、歓楽の巷で、「天下の嘲弄を恥じず、天道の恐れ顧みざる淫乱」(『信長公記』)にあこぎな生き様に我を忘れていたのである。
■三井寺の焼き討ち
 同じ天台宗ながら、山門派と寺門派の争いで、三井寺(園城寺)が、延暦寺派に焼き討ちされたことは過去に十四回もあったようです。今回、信長によって延暦寺が焼かれたのは、これが最初でした。東塔、西塔から山越えで京へ逃れようとしたのも、待ち構えていた織田勢に片っ端から坊主首をはねられた。有髪の僧兵たちや男女僧俗で首を切られたもの三千人と言われています。
■昭和の発掘調査で焼跡から出た謎
 しかし、この焼き討ち事件が本当にあったのかどうか、疑問を投げかける調査があるのです。
 それは、昭和三十一年(一九五六)に行われた滋賀県文化財保護課で、比叡山の発掘調査です。火災で消失した延暦寺大講堂の再建、三十三年の比叡山ドライブウェイ、四十一年の奥比叡ドライブウェイの開通工事を機に行われました。携わった技師の一人兼康保明氏の調査報告書によると、調査は東塔、西塔、横川の三地区で地下遺構や堂塔、坊跡郡跡について行われたました。しかし、延暦寺が「元亀の法難」と称している焼亡の跡だといえるものは、根本中堂と大講堂のみであるということが判明。元亀以前にすでに廃絶しているものが大半を占め、元亀の焼亡を示す例は、きわめて少なかったそうです。出土遺物についても、年代的に見て戦国時代のものはほとんどなく、平安時代の遺物が多く、一部室町時代のものもあるが、いずれも元亀以前のものばかりだったようです。
 (兼康氏)「『多聞院日記』などにみられるように、僧衆の多くは坂本に下り、生活の場もすでに山を離れていたと考えざるを得ない。つまり全山数百の諸堂が紅蓮の炎に包まれ、大殺戮が繰り広げられたとするイメージを生み出すのとは打って変わった、閑散たる光景しか存在しなかったのが、現実である。このようなことは山上の放火・掃討がわずか二、三日ときわめて短期間であったことからもうかがえよう」と報告書で述べておられます。
 では、「比叡山」の焼き討ちはあったのかどうか。比叡山が焼き討ちにあった場合には、京都や琵琶湖沿岸の各地から見えるくらいだったでしょう。京都の大文字焼きのように、山のごくごく一部で火を焚いても遠くまで見えますのに、山全体が一気に焼けたら、それはそれは。しかも、街灯などもなく、自動車も走っていない時代です。夜は、暗かったと思います。ですから、焼き討ちの記録が残っているのは、
・ウソだった(信長の評価を下げたい後世の何者かによる策略か、創作のたぐいか)
・話に尾ひれがついた。
・本当だったが、比叡山ではなく麓の坂本が焼き討ちにあった。
のどれかだったでしょうが、そのうち、最後の肢が近いのではないかと思います。
 『信長公記』に書かれているような放火炎上や大殺戮は、坂本の町に集中して行われ、日吉大社や神輿、西教寺も焼かれ、信長の利用を拒否した僧侶の本坊や宿坊も坂本の町家とともに炎上し、僧侶や町民や遊女もみな捕らえられて、坂本に集めて首を斬でしょう。
 その坂本の復興に、大いに努力したのが、坂本城主明智光秀であり、彼が信長に謀反を起こして自害に追いやったのは、何かを暗示しているのでしょうか。

 
 

2013年12月17日火曜日

官兵衛の臨終場面



かなり話が飛びますが、官兵衛の臨終場面は、彼がキリシタン信仰の熱心さを教えてくれます。

官兵衛「神父を呼んでくれ・・・ロザリオをくれ」
家臣「承知致しました」
しかし、神父は現れなかった。
官兵衛「長政、わしの合子甲と鎧は栗山利安に与える。これをわしを思い、忠勤を励んでくれ。」
長政・栗山「承知致しました(涙)。」
官兵衛「あと、博多に教会を建て教団を保護して欲しい。その教会にわしを葬ってくれ」
長政「父上・・・承知致しました。そこまで、伴天連のことを・・・」
官兵衛「頼んだぞ、長政」

伏見の黒田藩屋敷。二人が枕元に呼ばれたのは、官兵衛が二人を信頼したと共に、二人が官兵衛を信頼したとも言えるでしょう。

のちに、長政は博多のキリスト教会を作ることに同意します。
ただし、幕府に配慮して、官兵衛の追悼施設としての建設を認めます(教会ではなくて)。



長政が軟化し、官兵衛の弟の直之が熱心なキリシタンであったこともあり、
博多でのキリシタンの布教は一時盛んになります。
徳川幕府が慎重な姿勢であったこともあり、全国的に盛んになります。九州だけではありませんでした。愛知、東北、広島などです。

つぎに、甲冑を息子ではなく、腹心の部下に与えたことも意味があります。
後の黒田騒動の遠因となったからです。栗山利安の子栗山大膳が黒田家の忠義を貫いたのも、
官兵衛の甲冑を家宝とし、黒田家への命懸けのご奉公を家訓としたことから生じたものだと思います。



ご存知ない方のために・・・・

「黒田騒動(くろだそうどう)は、福岡藩で発生したお家騒動。栗山大膳事件(くりやまだいぜんじけん)ともいう。伊達騒動、加賀騒動または仙石騒動とともに三大お家騒動と呼ばれる。
長政は世継ぎ継承にあたり長男忠之の狭器と粗暴な性格を憂い、三男の長興に家督を譲ると決め忠之に書状を送る。書状には二千石の田地で百姓をするか、一万両を与えるから関西で商人になるか、千石の知行で一寺建立して僧侶になるかと非常に厳しいものであった。これに後見役の栗山大膳は、辱めを受けるのなら切腹をとの対応を忠之に進める。そして六百石以上二千石未満の藩士の嫡子達を集め、長政に対して廃嫡を取りやめなければ全員切腹すると血判状をとった。この事態を重く見た長政は嘆願を受け入れ、大膳を後見役に頼んだ後に死去。大膳はそこで忠之に諌書を送ったが、これが飲酒の心得や早寝早起きなど子供を諭すような内容だったため、忠之は大膳に対し立腹、次第に距離を置くようになる。2代藩主・忠之は寛永元年(1624年)藩主就任早々、彼とその側近と筆頭家老・栗山利章(大膳)など宿老との間に軋轢を生じ、生前の長政が憂いていたとおりにお家騒動へと発展した。忠之は児小姓から仕えていた倉八十太夫(くらはち じゅうだゆう)を側近として抱え、1万石の大身とした。そして十太夫に命じ豪華な大船・鳳凰丸を建造、更に200人の足軽を新規に召し抱えるなど、軍縮の時代にあってそれに逆行する暴政を行った。これにより遂に幕府より咎めを受けるに至った。栗山利章は寛永9年(1632年)6月、藩主が幕府転覆を狙っていると幕府に上訴した。このため幕閣は利章を尋問した。寛永10年(1633年)2月、幕府は所領安堵の触れを出し10年に及ぶ抗争に幕を閉じた。利章は騒動の責を負って陸奥国の盛岡藩預かりとなり、十太夫も追放された。なお、十太夫は島原の乱で黒田家に戻り鎮圧軍に従軍したが、戦死した。
この事件を森鷗外が小説『栗山大膳』において、改易を危惧した利章が黒田家を守るために尋問の場で訴えたとして脚色し描いている。十太夫は、島原の乱で一揆軍に加わり戦死したことになっている。(Wikipediaより)
また、官兵衛が家臣たちの殉死を禁止していなければ、栗山利安は殉死していたかも知れない。しかし、官兵衛が禁止しました。これは、彼はキリシタンだったから、自殺を禁止したことの延長線上にあったこともあるでしょうし、無駄死をやめて長政に仕えて欲しいという気持ちからだとも思えます。


2013年12月16日月曜日

官兵衛が攻城用兵器を繰り出して城攻めを成功させた事例

突然ですが、

■官兵衛が攻城用兵器を繰り出して城攻めを成功させた事例

①四国征伐のとき、阿波岩倉城攻めで井楼を築いた

 
 岩倉城が要害だったため、犠牲を増やさないため、力攻めをやめ、井楼を築かせ、
その上から日に数回城内に向けて鉄砲を打掛けさせました。

 鉄砲は、火縄銃ではなく、抱え大砲だったと思われます。なぜなら、城方の動揺を与えるためには、それなりの威力が必要だからです。通常の鉄砲は射程が50~100mで、弾も大きくありませんからね。

 さらに、寄せ手(城を攻める軍勢)が鬨の声をあげて、その声が山間にこだまし、城方を疲労させたりして、損害を少なく、城を開城させます(城将、長宗我部掃部頭親興は土佐へ逃げます)。

②朝鮮の晋州城攻めで、亀甲車を利用して、城壁に無傷で接近し、城壁を登って、城を落とした。

 加藤清正と共同で攻め、亀甲車を利用したので、あたかも加藤清正の家臣が発明して製作したかのように語られている場合もあるが、亀甲車の利用を勧めたのは、官兵衛であったかも知れないと思う。

亀甲車とは、文字通り亀の甲羅のように装甲を貼った車の中に人を乗り込ませ、装甲が火矢を通さず、牛の毛皮を使っていて難燃性で、石を落とされて攻撃されてもびくともしない、というものです。

亀甲車は、中国の兵学書に書かれているので、兵学に通じたものなら知っているものでした。しかし、我が国の山城には使用が困難でした。それを朝鮮の平城で使用することを発案するためには、中国の兵学書に精通していて思いついたか、あるいは、明軍、朝鮮軍またはゲリラが使っているのを見て真似したか、または、キリスト教の宣教師から西洋の亀甲車の知識を教えてもらったか・・・・後者であれば、加藤清正はキリシタンではなかったし、嫌っていたから、キリシタンだった官兵衛の方に分がある。

後藤又兵衛が手柄を立て、晋州城は落ちます。
ちなみに、晋州城は福岡城を築城する際に、参考にされた城の一つです。

以上のように、新兵器もうまく利用しつつ、敵方の心理を巧みに圧迫して、城を攻め落とした官兵衛でした。


2013年12月14日土曜日

豊臣政権が一代で崩壊し、家康の天下になった要因

豊臣政権が一代で崩壊し、家康の天下になった要因
 
日の出の勢いだった織田信長でさえ、天下布武の志の半ばで、家臣の裏切りにあって亡くなりました。
 
秀吉は家臣の中のナンバーワン1であったわけではありません。しかも、織田家の庶子がおり、彼らが信長の跡を継ぐものと思われていました。明智光秀を討って終わりではありません。
 
敵討ちという戦功があったものの、秀吉を快く思わない家臣もいたため、彼自身が天下をとるには、さらにもう一働きも二働きもする必要がありました。
 
黒田官兵衛をはじめとする家臣や、織田家の宿老たち、他の大名家(上杉、毛利)などの支持を取り付け、反対勢力を各個撃破して、圧倒的有利な状況を作り出していったわけです。
 
秀吉の軽妙なわざで人の懐に入り込む、褒美を与えて操縦する、というやり方自体が、強みだったといわれますが、そのやり方自体が仇となって、一代で政権が崩壊してしまった、と『名将言行録』に詳しく書かれています。また、どうして家康が政権を握るに至ったかも同様に書かれていますので、ご紹介いたします。
 
黒田官兵衛の項です。
 
官兵衛本人が言ったかどうかは不明です。『名将言行録』自体は史料価値は高くなく、後世になって「あとづけ」で創作された可能性があります。だから、評論家のあとづけ講釈として読めば、誤らないでしょう。
 
長いので、できるだけコンパクトに縮めます。
 
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―豊臣政権が二代続かない理由

太閤が天下を治める様子による。
 
懐に入る身軽さ、色々と褒美を与えるから、親しみをもたれたが、真の忠誠心をもたれたわけではない。
 
太閤の世には、その身の果報や武勇からどのようにしても治まるが、子の代で同じやり方は通じない。威厳が失われるし、武功が元々ないから、人々から軽んじられるだろう。それを反対に、威を振るったら、太閤すらそうであったのにと不満が出て、世間のそうした気詰まりがでてきたことに飽く者も出てくる。しかし、太閤のように知行や財宝を与えることなど、とてもできないから、親しむ心がなくなり、諸将の離反を招き世が乱れるのは必定。
 
太閤が天下人になったからには、威厳を持って、行儀を正しくし、信念を持って国を治めれば、次代への相続も容易だろうが、今の状態では二代は続かない。
 
 
―家康が天下人になった理由

家康は大身で、老巧で、武勇は天下無双。日常の行ないも律儀で、人々は皆彼を尊敬している。
 
また、生来の口不調法であり、人が失敗したり軽薄な行動をしても、見下げたり怒ったりすることもなく、その人の真の意思を汲み取る。
 
武の道については、その自信は人後におちない。太閤の面前で、長久手の武功を素直に言ってのけるくらいだから、自然に家康に一目置くようになり、心中で怖れるようになった。

だから、太閤のあとには、家康に天下が帰するであろう」と。のちに果たして孝高のいったとおりになった。

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もしかしたら、どこかで似たような評論に接したことがある方もいらっしゃるかも知れませんね。

「太閤が天下人になったからには、威厳を持って、行儀を正しくし、信念を持って国を治めれば、次代への相続も容易だろうが、」とあり、威厳が全くなかったわけではないが、やはり譜代の臣があまり強力ではなく、毛利・上杉をはじめ、大勢力への気遣いが必要で、徳川幕府のような武断政治で、どんどん外様の力を削っていくことは難しかったでしょう。困難は必至です。

譜代の臣といえる子飼いの武将や、三成をはじめとする吏僚派武将たちがいましたが、彼らを世継ぎの下に組織化する時間がないまま、朝鮮に出兵してしまったのは失敗だったでしょう。

前田利家と徳川家康以外は、膨大な戦費や死傷者を出して、国力がダウンしてしまったことは、家康の台頭を招きやすかったのではないでしょうか。

秀吉が長く続いた戦国の世をいったん終わらせた功績は変わることはないでしょう。
他の武将にはできない離れ業だったわけで、それを受け継いでいくことに暗かった、というべきでしょうか。