2013年12月26日木曜日

キリシタン大名の運命やいかに!?  -小西行長 編-


 


    

みなさんは、小西行長ってご存知だろうか?

ああ、なんとなく聞いたことある・・・誰?

筆者が人気戦国武将ランキングを調べたところでも、50位にも入っていなかった。
たとえ知られていても人気がない・・・かわいそうな行長ちゃん。みなさん彼のことを知ってあげてください。

永禄元年(1558年)、堺の商人(薬を主に扱う)である小西隆佐の次男として京都で生まれ、岡山の商人の家に養子として入り、商売のために度々宇喜多直家の元を訪れていた。
 
その際、直家に才能を見出されて抜擢されて武士となり、家臣として仕えた。羽柴秀吉が三木城攻めを行っている際、直家から使者として秀吉の下へ使わされ、秀吉と出会う。この時、秀吉からその才知を気に入られ、臣下となる。


豊臣政権内では舟奉行に任命され、水軍を率いていた。1584年には高山重友(右近)に後押しされたこともあって洗礼を受けキリシタンとなる。
 
このあと、死ぬまで一貫してキリシタンとして活動することになるが、本稿ではそのあたりを中心に拾い読みしてみよう。

天正13年(1585年)小豆島で1万石を与えられた。
小豆島ではセスペデス司祭を招いてキリスト教の布教を行う傍ら、島の田畑の開発を積極的に行った。
 
また、天正15年(1587年)のバテレン追放令の際に改易となった高山右近を島にかくまい、秀吉に諫言している。
これは、非常に勇気のいる行為であろう。まだこの頃の秀吉政権では、秀吉対個人の関係が緊密であったし、行長が秀吉の信頼を得ていたから、それができたのかも知れない。

天正15年(1587年)の九州征伐、翌年の肥後国人一揆の討伐に功をあげ、肥後の南半国宇土、益城、八代の20万石あまりを与えられた。肥後では宇土城を新規に築城し、本拠とした。




その宇土城普請に従わなかった天草五人衆と戦いになり(天草国人一揆)、
これを加藤清正らとともに平定、天草1万石あまりも所領とする。
秀吉は、後の朝鮮出兵を視野に入れて、水軍を統率する行長を肥後に封じたという。


このころ天草は人口3万の2/3にあたる2万3千がキリシタンであり、
60人あまりの神父、30の教会が存在したという。志岐氏の所領である志岐には宣教師の要請によって画家でもあるイタリア人修道士(イルマン)ジョバンニ・ニコラオが派遣され、ニコラオの指導下で聖像学校が営まれ、油絵、水彩画、銅版画が教えられ聖画・聖像の製作、パイプオルガンや時計などの製作が行われていた。
学校は後文禄3年(1594年)有馬半島八良尾のセミナリオと合併し規模を拡大したが、これらイエズス会の活動に行長は援助を与え保護した。


行長の宇土城は水城として優れた機能を持っていたといわれる。
 
このほか、秀吉の意を受け、水軍指揮と海外貿易の適地であった八代に麦島城を築城し(八代はルイス・フロイスが『日本史』で絶賛した土地であった)、重臣の小西行重を城代として配置した。

 
 
 

八代城と麦島城は前川と挟んで建っており、麦島城は前川につながっており、前川から八代海に出ることができた。八代海は東シナ海の外海と天草諸島で隔てられており、穏やかな「内海」と言えた。

また、キリシタンが多かった高山右近の旧臣が多く家臣に取り立てられた。
 
しかし、残りの肥後北半国を領した清正と次第に確執を深めることになる。清正は日蓮宗の信者で、賤ヶ岳七本槍の一人として、武功を挙げ、薬問屋出身の行長を薬屋のせがれだと馬鹿にしていたという。

朝鮮の役に参加するが、これについてはキリシタンとしての事蹟には直接関係ないので、大幅に省略する。しかし、とにかくすごかったのである。朝鮮に一番乗りを果たし、破竹の勢いで、ソウルを落とし(たったの十日で!)、さらに、ピョンヤンまで落としてしまったのだ!韓国KBS制作「李舜臣」でも「小西行長」の名前はしょっちゅう出てくる(観たい!と思われた方はDVDにてご覧下さい。ただし、朝鮮=善、日本=悪として描かれているのでご注意を)
 
文禄の役に際しては、講和交渉の主導者だった行長は秀吉の強い怒りを買い、死を命じられるが、承兌や前田利家、淀殿らのとりなしにより一命を救われる。慶長の役でも再び出兵を命じられ、特に講和交渉における不忠義の埋め合わせのため武功を立てて罪を償うよう厳命されて朝鮮へ進攻する。

慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、行長は12月に帰国する。その後は寺沢正成とともに徳川家康の取次役を勤めるなど、むしろ家康との距離を近づけているが、
慶長5年(1600年)の家康による会津征伐に際しては上方への残留を命じられた。
 
その後に起こった関ヶ原の戦いでは、石田三成に呼応し西軍の将として参戦する。




9月15日の関ヶ原本戦では、東軍の田中吉政、筒井定次らの部隊と交戦して奮戦する。
 
しかし小早川秀秋らの裏切りで大谷吉継隊が壊滅すると、続いて小西隊・宇喜多隊も崩れ、行長は伊吹山中に逃れた。竹中重門家臣の伊藤源左衛門・山田杢之丞両名に事情を話し、共々行長を護衛して草津の村越直吉の陣に連れて行った。


10月1日に市中引き回しの後六条河原において三成・安国寺恵瓊と共に斬首された。
 
 
その際行長はキリシタンゆえに浄土門の僧侶によって頭上に経文を置かれることを拒絶。ポルトガル王妃から贈られたキリストとマリアのイコンを掲げて三度頭上に戴いた後首を打たれたと伝えられる。
処刑後、首は徳川方によって三条大橋に晒された。
死に臨んで告悔の秘蹟を同じキリシタンであった黒田長政に依頼したが
家康の命もあって断られ、処刑当日も司祭が秘蹟を行おうとしたが接近できず受けることができなかった。


遺体は改めて秘蹟を受けた上で絹の衣で包まれ、カトリックの方式で葬られた。
教皇クレメンス8世は行長の死を惜しんだと言われる。


宣教師の記録にも、旧小西領を占領した加藤清正の命令で投獄された肥後の宣教師の釈放を、官兵衛が清正に働きかけ、釈放に成功したことに対する官兵衛への感謝の記録に、セルケイラ司教や準管区長パジオは、官兵衛に感謝状を送り、官兵衛こそ小西行長に代って、日本のキリシタンの柱石と保護者になるようにと期待していた(一六〇一年二月二十五日、長崎発、カルヴァリョの書簡)、とあるように行長に信頼を寄せていたことが読み取れる。


・・・とここまでは比較的ニュートラルに書いてきた。
しかし、行長のイメージは芳しくない。人気があまりない。なぜなのだろうか。

 

■行長のイメージの転換

従来は、勇敢な加藤清正とは対照的に卑劣な武将として描かれることが多かった行長のイメージの転換を図りたい。
 
近年見直しの機運が高まっているようだ。

従来のイメージは、

・勇敢な加藤清正とは対照的に卑劣な武将だった(朝鮮の役で講話を画策したから)。

・行長がキリシタンとして肥後領内で寺社勢力を弾圧した。

・信仰と政治を両立させた行長の姿勢を秀吉に対する「面従腹背」であると強調している(遠藤周作『鉄の首枷』)

しかし、実像は違っていたかも知れない。

関ヶ原の戦いで西軍に与して徳川家に弓を引いたとはいえ、
江戸時代前期には「行長豪勇にして、機警あり、好んで兵書を読み、策略に長ぜり」
(小瀬甫庵『太閤記』)などと、その才能は高く評価されていたのだ。

なぜ、悪いイメージがついてしまったのか。

・明治に入り、日本帝国主義の勃興期において、
好戦派として神格化されていく加藤清正の対立軸として、講和派の行長が語られ、
悪者とされた。

・すでに17世紀初頭には行長の末路を仏神の罰とする理解があり、
時代が進みキリスト教禁教が徹底されるにしたがって、
「キリシタンだったから寺社を弾圧した」
とする誤った行長評が寺社サイドから喧伝された。

秀吉に対する「面従腹背」だと評されたが、

行長の姿勢はむしろ「政教分離」を確立し、
伴天連追放令の下でキリシタンの活動を継続させるための現実的な選択であった。
政治に介入しない限り、宗教活動は黙認されることを計算していたことにあったのだろう。


いずれにしてもモノはいいようで、良くないイメージも見方によっては、全く違ってみえる。光があれば影がある、ということなのだろう。

2013年12月25日水曜日

キリシタン大名の運命やいかに!? -高山右近編-

■概要


伴天連追放令の発令の際に、見せしめとして所領を没収され追放されました。その後、加賀前田家に寄食する身となり、徳川幕府の禁教令により呂宋(フィリピン)に追放となってしまいます。
 
■秀吉の伴天連追放令の影響
 

秀吉からも信任のあつかった右近は、天正13年(1585年)に播磨明石郡に新たに領地を6万石与えられ、船上城を居城とします。
 
しかし、まもなくバテレン追放令が秀吉によって施行され、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選び、世間を驚かせました。
 
 
 
■加賀前田家に寄食
 
その後しばらくは小西行長に庇護されて小豆島や肥後などに隠れ住みますが、天正16年(1588年)に加賀金沢城主の前田利家に招かれて同地に赴き、そこで1万5,000石の扶持を受けて暮らしました。
 

前田利家自身もキリシタンとなっていたこともあるし(洗礼名  オーギュスチン)、秀吉との親しい中であったこともあり、匿われたのでしょう。



小田原征伐にも前田軍に属して従軍しています。
金沢城修築の際には、右近の先進的な畿内の築城法の知識が大きく役に立ったともいわれます。また利家の嫡男・利長にも引き続き庇護を受けます。慶長14年(1609年)には、利長の隠居城・富山城の炎上により、越中射水郡関野(現富山県高岡市)に築かれた新城(高岡城)の縄張を担当したといわれています。
 

 

 


 
 
 
■徳川幕府の禁教令
 
秀吉の伴天連追放令は不徹底でしたが、徳川幕府の禁教令は慎重かつ綿密に行われました。
 
家康は関ヶ原の戦い以後、慎重に豊臣政権から徳川幕府に政権の移行を図ります。
豊臣恩顧の大名が一斉に蜂起して反乱を起こすのを心配したためとも言われます。
キリシタン政策についても、慎重でした。関ヶ原の戦いの勝利に貢献した黒田官兵衛が熱心なキリシタンであり、彼が周旋してキリシタン保護に動いたからだとも言われます。
 
しかし、その後幕府の権力基盤を固まっていくなかで、排斥されていきます。
 

 

慶長19年(1614年)、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去します。長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着。
 
イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペイン人のフィリピン総督フアン・デ・シルバらから大歓迎を受けます。しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、翌年の1月8日(1615年2月4日)に息を引き取ってしまいます。享年64。

 

葬儀は総督の指示によってマニラ全市をあげてイントラムロスの中にあった聖アンナ教会で盛大に行われました。
 
 
 
右近の死後、家族は日本への帰国を許されました。
現在、石川県羽咋郡志賀町代田、福井県福井市、大分県大分市に直系子孫の3つの「高山家」があるそうです。
 
 


しかし、どんなに排斥されても、財産を失っても、へこたれない信仰。どこからそんな力が湧いてくるのでしょうか。それが「信仰」の力というものなのでしょう。みんな何かを信じて生きていますが、お金や財産、地位や名誉などをあてにして、必死に守って生きるよりも、そんなの死んだら何一つもっていけない。そんなあてにならないものよりも、魂の問題を解決することを彼は重視したのだろうと思います。

私自身はクリスチャンではありませんが、それは至極もっともなことだと思います。

2013年12月24日火曜日

官兵衛が隠居したときに名乗った「如水」の意味

 

官兵衛が隠居したときに名乗った「如水」の意味は何だったのだろうか。
 
実は、この名前の真意から、官兵衛がキリシタンとして生きる決意が読み取れるのである。しかも、キリシタン王国の建設のために自分が切り込んでいこうとする決意が読み取れる。

如水ということで、老荘思想の「上善は水の如し」を連想するが、そのことが意図ではなかった。また、禅僧の名前ようで、そうでもない。
 
(写真とは直接関係ありません。新潟の清酒「上善如水」です)
  
これはキリスト教に則した名前であった。
 
モーゼの後継者ヨシュアをスペイン語風に発音するとジョスイとなる。旧約聖書でモーゼの後継者のヨシュアは、神が約束されたカナンの地に入るために戦ったイスラエルの将軍の名前であった。モーゼの死後、神はヨシュアにヨルダン川を渡ってカナンの地を占領するように命じ、ヨシュアは川の手前で野営し、渡った後に三千の兵を先発隊として派遣したという。このことが洗礼名に反映されており、官兵衛のキリシタン保護の決意がが感じられる。
 

その後、官兵衛が発行した書状の印判にはローマ字で「Simeon Josui」と刻んでいる。また、書状には、シメオン(洗礼名)と如水を併記するなどしている。

 

 ということで官兵衛はキリシタンをすてるどころか、心の中で信仰が燃え上がっていたのであった。

2013年12月23日月曜日

秀吉がバテレン追放令を出すまで~蜜月から追放へ~




■秀吉とイエズス会の蜜月

秀吉は、キリシタンに対し、厚意を示していたようです。



 
一五八四年「日本年報」には、
「今羽柴秀吉殿・・・(中略)・・・はただデウスの教えに反対しないばかりではなく、大いに我が聖教を尊び、坊主の欺瞞の宗旨よりも真なるものと認め、キリシタンに信頼し、側近にある大身たちの子息がキリシタンになることと聞いて喜んでいる。ジュスト右近殿(高山右近 引用者注)については、毎日城中で語り、彼を称賛し、その模範的生活に驚嘆し、青年でかくも欲を制するものは珍しいと考えている」
とあります。

秀吉の大奥にさえ幾人かのキリシタンがいたくらいでした。
しかも、彼らは公然と信仰を続け、秀吉はこれを信用し重んじていたようで、ヨーロッパ風の名前を付けて呼び合っていたようです。

天正十四年二月十三日(一五八六年四月一日)に、秀吉自ら信長の一子、ならびに諸将を同伴して、突然大坂の天主堂を訪ねて、パードレと気軽に談話を交え、

「予は、おぬしが教えについて語ったところことごとく満足し、キリシタンとなるについて、大勢の妻をもつことを許さぬ戒律以外には困難を感ぜぬ、もしこの点を緩くすれば、予もまたキリシタンとなるであろう」
と秀吉一流の冗談を飛ばし、出された砂糖菓子をむしゃむしゃ食べたと言われます。

イエズス会の副管区長コエリョは、北政所を通じ、以下のことを秀吉に願い出ます。

1、   全領内で自由にデウスの教えを説き、一切妨害を受けない。

2、   我が駐在所(カーサ)及び天主堂に対して、坊主や僧院の一般に課された義務を免除し、兵士の宿泊所とすることを免ずる。

3、   外国人としての一切の義務を免除する。

以上三箇条の特許状を願い出たところ、
秀吉は直ちにこれを容認し、特許状二通に自ら署名して下げ渡しました。

 

その後、まもなく(天正十四年三月十五日(一五八六年五月三日)、コエリョは、大坂城の秀吉を訪問して異常な歓待を受けています。

大坂築城には、三十余ヶ国の大名を動員して工事を進め、天正十二年八月に秀吉は大坂城に移りました。

コエリョはパードレ四名(コエリョ、フロイス、オルガンチノ、セスペデス)など合わせて三十余人の同行を引き連れて長崎を発し、キリシタンの安威了佐、キリシタン嫌いの施薬院全宗両人の案内で登城しました。
高山右近がキリシタンだったため取り持ち役を命じられ、フロイスが通訳となり、秀吉に面会しています。

秀吉がパードレから近い場所に座って、彼らと話し、その心中を話したことに人々は驚いた、とあります(当時は、そうとう離れた場所に座っており、直接言葉を交わすことは珍しいことでした)。

日本在住のパードレたちが教えを説いて弘める以外に他意がないことを称賛し、

「天下を平定したら、美濃守(秀長)に譲り、自分は朝鮮、シナ征服を考えている。
そのために二千艘の船を作る予定であるが、パードレたちに望むところは、十分に武装した大帆船二隻を入手する斡旋をしてもらいたい。
対価は望みに任す。
いったんシナ人が帰服してしまえば、別に野心はなく、その時になって各地に聖堂をたて、皆がキリシタンになることを命じて日本に帰る。

また日本の半分、あるいは大部分をキリシタンとすべきだ」とさえ言っています。

ついで、他の随行者たちを呼び寄せ、城内をくまなく案内させ、ある場所では、秀吉みずから案内に立って、天守閣に登って工事について説明したりした。最後に酒肴を供し、みずからパードレやイルマンらにサービスをした。
これは、秀吉がキリシタンに厚意を寄せていることを示していました。


■一転して、伴天連追放令の発令


しかし、このことがあってわずか一年後に、伴天連追放令が下ります。

その変化は急転直下という感じでした。
 
一説には、キリシタンの危険性を彼なりに感じていたが、時期尚早であると判断して、
九州平定が成功し、天下取りの確信を得るまでは黙っていた、とする見方もあります。

 

熱心なキリシタンとして、大名や家臣たちへの布教をし、官兵衛や小西行長らも、彼の勧誘がきっかけでキリシタンになります。それだけではなく、神社仏閣を破壊するラジカルな行動をとったことが、反キリスト教勢力(秀吉の側近の施薬院全宗ら)の反感を買ったのでしょう。

追放令によって、キリシタンであった官兵衛の運命も暗転していくことになります。
そういう意味で非常に重要な事件だったと私は思います。

2013年12月22日日曜日

黒田官兵衛に天下への野望があったかどうか

■序

黒田官兵衛に天下への野望があったかどうか、これは重要な問題です。

なぜかというと、この問題こそが官兵衛のドラマチックなところだからです。
天下をとれるだけの智謀があったのに、チャンスを逃して天下を取り損なった、二流の人・・・
なんていわれてしまっている、官兵衛。

そんな意図がなかったのに、勝手に祭り上げられ、貶められている。
心外なのではないか、と思います。なんで二流やねん・・・(姫路弁で)

■背景、石田三成挙兵まで

秀吉が亡くなり、朝鮮から引き上げてくる諸将。
秀吉は亡くなる直前に、諸将に誓紙を提出させて、秀頼を盛り立てて豊臣政権の存続を図ろうとします。

ナンバー2で諸大名の中で抜きん出ていた徳川家康。一方、朝鮮の役で諸将は傷ついていました。財政的にも。莫大な戦費を負担し、朝鮮の抵抗運動にも悩まされて、犠牲を強いられました。

ナンバー1がいなくなった天下は、ナンバー2の手に渡る、これは道理です。
しかも、家康と前田利家は、朝鮮に渡海していませんでした。そのため、名護屋城在城の兵糧負担だけで済んでいます。家臣団は無傷でした。しかも、家康は豊臣政権下で筆頭の250万石。
豊臣政権の直轄領の石高に迫るものでした。一方、前田利家は80万石前後。

家康が中心となって豊臣政権を運営していくのか、あるいは、家康自身が天下を動かすのか(豊臣政権は傀儡となるのか)。

ただ、家康は慎重に事を進めます。もし、他の大名たちが、豊臣政権の下に結集し、家康の排除に動いては、勝目がありませんでした。毛利120万石、上杉100万石、前田85万石、宇喜多50万石・・・彼らが全部敵に回ってしまってら、いくら家康でも勝てなかったでしょう。

だから、慎重に時を待った。

諸将の中で、家康へ天下が帰趨することを感じていました。官兵衛も早くから家康への接近を図っています。

一方、豊臣政権を盛り立てていこうとする勢力や、家康に天下を渡して自分が風下に立つのを潔しとしない勢力もいました。

石田三成をはじめとする奉行です。また、福島正則や加藤清正ら秀吉子飼いの大名も豊臣政権自体の存続を図ることには賛成でした。他にも家康の風下に立つを潔しとしない上杉、宇喜多などもいたのです。

そこで、家康は囮というか、スケープゴートが必要でした。その囮を利用して、豊臣政権との敵対という形をとらず、豊臣政権の家臣同士の戦いで、自分に敵対する勢力を、自分についてくる勢力を利用して叩く。石田三成が囮として最適でした。




後世、石田三成をひどい人間のように描いていますが、それは誤りです。
確かに、おとなしくしていれば一大名として存続し、行政に非常によい手腕を発揮した名君として語り継がれていたことでしょう。ただ、どうしても大恩ある秀吉の遺言をないがしろにする輩が許せなかった。武士として、義理を果たすことに殉じただけです。家臣の島左近には、そんなに義理を通しても・・・ちょっと子供じみてない?と言われてしまっています。

江戸時代には、石田三成自体はひどい描かれ方をしたままでしたが、
三成のように忠義を尽くした人は顕彰されました。
世渡りは下手だったかも知れません。青臭かったかも知れません。
でも、そういう人が必要なんだと思います。

司馬遼太郎さんは、「よくもまあ、大会社の課長クラスの人が、頑張って役員クラスの人を集めてきて、戦ったものです」と慨嘆されているように、三成は、仲が良かったと言われる上杉と内通し、毛利一族(毛利、小早川、吉川)、宇喜多秀家、小西行長、島津義弘、長宗我部盛親、丹羽長重などを反家康方に引き入れることに成功します。

家康が会津の上杉征伐に上方を留守にしたときに、石田三成が家康打倒を掲げて、挙兵します。

■官兵衛の動き@九州

このとき、官兵衛は中津(現 大分県中津市)にあって、長政を家康に付き従えさせる一方、上方の情勢を中津に知らせる早舟を組織して、アンテナを張ります。

結果どうなったか。皆さんご存知のとおり、東軍が勝利。家康は、徳川秀忠が率いる本隊が本戦に間に合わないという不利があったにもかかわらず、毛利方の裏切りを誘って、戦局の不利を逆転し、圧倒的な勝利を得ます。



一人息子の黒田長政は、福島正則らの豊臣恩顧の大名を、反三成ということで家康方に結集する工作を成功させます。当時、大坂城には諸大名の人質がいて、これを石田三成は拘束していました。東軍についたら、人質を殺されるかも知れない危険性がありました。それでも、福島正則らの豊臣恩顧の大名は家康についた。長政の工作も功を奏しました。




一方、九州にいた官兵衛は、西軍だらけの九州で、東軍につくことを前提に、西軍の諸城を攻めるため果敢に出撃します。

当初、家臣たちは出撃には難色を示しました。敵だらけで、味方は熊本の加藤清正だけ。できるだけ、中津城の防備を固めて、籠城したほうがいいでしょう。しかも、黒田家臣団の主力は長政について上方に行っていますので、中津に残っているのは、僅かな兵だけです。

官兵衛は、「お前たちは何年俺に従ってきたのか。俺の力量を知らないのか。こんな兵力の劣勢は、跳ね返せない俺だと思っているのか!」と、金蔵を開いて、日頃のケチケチ生活で溜め込んだお金をばらまいて牢人をかき集め、三千人以上の兵を集めて、豊後方面に向かって出撃します。

戦いの状況は長くなるので、省略しますが、官兵衛は豊後を平定後、毛利(森)勝信の香春岳城を落とし、一時西軍についた鍋島勝茂(直茂)を東軍に勧降し、毛利秀包の久留米城を落とし、柳河城の立花宗茂を降伏させ、加藤清正と合流して、薩摩の島津攻めをするために南下します。
八代まで南下したとき、関ヶ原の合戦に勝利した家康の停戦命令が出され、停戦して中津に帰ります。



■官兵衛の意図

ここで、官兵衛は破竹の勢いで、九州を席巻したように見えますが、実は、関ヶ原の戦いが半日で決着したことにより、西軍についた諸大名が味方の上方での敗北を知り、所領の安泰を図ろうとしたことにより、一刻も早く東軍の官兵衛に降ってきたので(柳河城の立花宗茂は頑固に抵抗しましたが)、有利に戦いを進められたのです。決して彼自身の軍略によって、九州を席巻したわけではありませんでした。

『黒田家譜』には、関ヶ原の戦い後、官兵衛が長政に語る場面が描かれていて、

もし、東西両軍がにらみ合ったまま戦況が膠着していたら、九州を平定してから、中国を制圧し、上方に侵攻して、家康公を助けようとしたと書かれています。

もちろん、『黒田家譜』は幕府に提出するものだったので、「家康公を助けようとした」というのは、本当かどうか分かりませんが、チャンスがあれば、中国地方も調略で落とし、出身地の姫路あたりに上陸して、大軍を擁して上方に攻め入ろうとしていた、という戦略を描いていたということでしょう。

官兵衛が天下を狙っていたという説では、これを東軍が勝っても、それを叩けば勝利して天下がとれる、と官兵衛が思っていたと主張します。

しかし、本当にそんなことが実現するのでしょうか。

『黒田家譜』には、家康公が負けたら天下がまた大乱になる。それを望んでいないから、自分が九州から上方に駆けつけて家康を助けたいと、長政に言ったとされています。

同じく、『家譜』には、若い頃は大功を立てて出世しようとしていたが、老成して、そのような名利(名誉欲や利益欲)は棄てて、天下万民のため平和な世の中を、しかも、皆が住みやすい世の中を作ろうしたことが読み取れる箇所があります(官兵衛晩年の記述)。
それを実現するためには、家康に天下をとってもらうしかない、と思ったかも知れません。

いやいや、幕府に提出する『家譜』だから、綺麗事を書いているだけだよ、という方もいらっしゃるでしょう。

しかし、官兵衛の発想はやはり変わっていて、現代人に割と近い。宣教師から聞いてであろうキリスト教や西洋の思想の影響もあると思います。私たち現代の日本人も、同様の思想の影響を受けていますから。乱暴な言い方をすれば、源流は同じ。

たとえば、一夫一妻の愛妻家、殉死の禁止(殉死をするくらいなら、次の当主に仕えよ)、上に立つ者は家臣・領民を畏れよ(家臣・領民が困るように主君ではダメ)、朝鮮の役でも朝鮮の民を慈しみ手懐けよ(武威で脅していては、返って反撃にあるだけで、統治できない)・・・etc

ということからも、平和な世の中を作るという大目的があって、
次にそれを誰が引っ張っていくのか(手段)、それに一番近いのは家康、
多分家康が勝つだろうけど、もし家康が倒れたら、俺が何とか実現する。

決して、どす黒い野望ではなく、ベリーホワイトな営み。
これが、官兵衛の本意だったと思います。
もちろん、人間ですから欲もあって、家康に恩を売って、長政以下の子孫により大きな領土を遺してやりたい、だから、できるだけうまくやれば、一カ国以上もらえるだろうと踏んでいたでしょう。

果たして、先見の明があった官兵衛は、望んだとおりの世の中が訪れます。
官兵衛に残されていた時間は、あと四年あまりでした。

2013年12月20日金曜日

高山右近の最初の試練

■高山右近の紹介

高山右近を皆さんご存知でしょうか。戦国時代~安土桃山時代のキリシタン大名です。歴史に関心がある方なら、絶対に聞いたことがある名前だと思います。

彼の父母はキリシタンであり、彼自身も若いころに受洗した。武将としても信長や秀吉に愛されたが、
秀吉が伴天連追放令を発令してから、彼の人生が暗転し、所領没収→加賀前田家お預け→フィリピンに追放・・・となってしまいます。

■訪れた試練

時間をさかのぼって、順調に見えた彼の人生に最初の試練が訪れたのが、26歳の時。

摂津高槻城主だった高山右近が仕える摂津国の領主荒木村重(居城有岡城(伊丹城))が織田信長への謀反をおこし戦いをいどむことになります。

すでに、摂津の西隣の播磨国には秀吉を司令官として攻略が進んでおり、このままでは秀吉が退路を絶たれ、毛利と村重らの挟みうちにあって危険な状況でした。

荒木村重は信長の信頼も厚く、黒田官兵衛とも親交があった人物ですが、諸事情があり織田方と対峙していた毛利方に寝返ります(寝返った理由は諸説あります)。

右近は村重の信長への謀反に反対するものの、高山右近は子供と妹を荒木村重に人質として差し出し忠誠を誓います。

織田信長は荒木村重を攻めるため、その通路である高槻城主高山右近に勧降工作をします。信長は右近が金や領地で釣れないと知っており、別の有効な方法を繰り出します。

それは、高槻領内のキリスト教神父を捕らえ、もしも右近が 村重に従うならば、神父達を殺害すると伝えてきます(一説には畿内全域の神父たちを殺害するぞと脅された)。

■右近の中の迷い

この時、右近は「信長様なら殺戮をやりかねん。しかも、一度裏切ったら絶対に許してくれない。」
 
「しかし、主君の荒木村重殿への忠義もあるし、村重殿を裏切れば差し出した人質も殺されるだろう。」
 
葛藤、迷いが生じて悩みます。
 
尊敬していたイエズス会員・オルガンティノ神父に助言を求めます。神父は「信長に降るのが正義であるが、よく祈って決断せよ」とアドバイス。

高槻城内でも意見が二つに割れます。

■右近の決断
 
彼は、彼自身の良心に従う決心をするのです。

頭を剃り領地と城を明け渡し、従者をもつけず信長の前に現れます。
 
この政治の世界との絶縁を示すこの行為は、右近を思いもよらぬ結果へと導くことになるのです。

彼は信長に許され、所領を安堵されただけでなく、荒木村重にさしだした人質も命が助けられるという、非常に幸運な結果となります。

人生最大の危機に直面して、右近は良心の声に耳を傾けることによって乗り越えました。

その後、彼はより一層キリスト教信仰に邁進していくことになるのです。

■なぞ

しかし、なんで荒木村重は人質を生かしたんでしょうか。
黒田官兵衛も村重に織田方に戻るように説得に行って捕まりますが、生かされます。どうして生かされたんでしょうか?


なぞです・・・
 

■関連記事
 
官兵衛は一年間村重に拘束されます。土牢のようなところだったと言われていますが、確証はありません。
 
その点で、有岡城が落城して、官兵衛が拘束から解放され、有馬の湯で湯治をして快復してから、4年後に、出家した村重(道糞と号した。道端のくそと卑下)と書状を交わしています。
 
その書状は戦前の歴史書には載っていたようですが、最近、博物館の調査で文献が発見されたようです。
 
http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201312/0006542207.shtml
http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201312/0006542207.shtml
 
もしかしたら、官兵衛が過酷な状況に置かれたのは、創作だったかも知れません。それがわかったら、世紀の大発見!(にはならないか・・・)個人的にはびっくり!!!!くらいでしょうか(笑)





2013年12月19日木曜日

信長が「比叡山」焼き討ちをした理由、その真相

今日のテーマは、信長が「比叡山」焼き討ちをした理由は?です。




悲惨な殺戮の様子は時代劇などでは、よく出てきていた(最近はあまり見ませんね)ので、ご存知

の方もいらっしゃるでしょう。
 
比叡山に鍵括弧がついていることは、読んでいたければわかるようにしています。

(テーマを選んだ背景:黒田官兵衛がキリシタンになった理由を調べている過程で、官兵衛は何で

仏教では救われなかったのかな?と思って、当時の仏教の状況を調べていました)
 
■当時の比叡山を取り巻く情勢
 
 将軍足利義昭と信長の仲が険悪となり、義昭の手回しで、越前の朝倉、北近江の浅井、
 
本願寺などと気脈を通じて信長と敵対したとき、延暦寺もそれらに呼応した。
 
また、比叡山は岐阜から京都までの街道の大きな障害となっていた。
 
この邪魔者を除くというのが、信長の焼き討ちの目的の一つであった。
■比叡山の腐敗
 それから、当時の比叡山は仏教の聖地だったというより、むしろ、世俗化が激しく「腐敗」していた
 
ことが伺えます。仏様の権威を笠に着て、一つの武装集団でした。神仏への恐れや敬いの心は力
 
には力を持って戦う戦国の世でもありましたが、信長はイエズス会の宣教師ルイス・フロイスが記
 
録しているように、「無宗教」に近かったのでしょう。あくまで利用価値があれば利用すると。
 
 では、当時の比叡山の様子をみてみましょう。
 
・四階層(院来、堂衆、学生、公人)のうち、最下層の僧兵と呼ばれる「公人」たちが腐敗の中心であった。
・普段は有髪のごろつきのような輩だった。常に叡山の権力を笠に着て、肩を怒らせて山領の年貢の督促などをし、有事の際には有髪を隠すために白布で頭を巻き、黒衣をまとい、武器を手に暴れ、日吉大社の神輿をかついで都大路になだれ込み、要求貫徹するまでデモをやった。

 
・彼らの多くは、叡山の門前町坂本や下坂本にたむろし、女色を漁り、魚鳥を喰らい、遊興費に困って料米、灯油、法儀料、布施などをくすね、不正な賄賂を貪り、あこぎな高利貸などをやり、脅し、かたりの果ては暴力を振るっていた。
・叡山の門前町の坂本は多くの寺や社を中心とした町であった。
 坂本の日吉山権現は全国に多数の末社、分霊社を持ち、延暦寺と共に国内の権勢を誇っていた。そのうえ、湖上の船便の集中する坂本浜を外港として、種々の恩沢を受け、富裕な酒屋、土倉が軒を並べ、七十年前の文亀元年(一五〇一)の大火の傷も癒えて、大津港と繁栄を競っていた。
 
・天台宗の栄えとともに、北陸、東国から大量の荘園年貢米が入り、全国の多数の末寺から得度、灌頂、加行のために集まる宗門の人たち、延暦寺に参詣する団体の人たちで賑わっていた。その人たちのための旅籠、精進料理、接客業者が増え、酒を般若湯、遊女を蓮葉と呼ぶ歓楽の巷が各所に出現していた。
・公人と称する前記の破戒坊主たちは、山門領からの年貢米収納管理のほか、三千僧徒の食糧、消費物資の調達を掌り、警備も担当する役得をよいことに、歓楽の巷で、「天下の嘲弄を恥じず、天道の恐れ顧みざる淫乱」(『信長公記』)にあこぎな生き様に我を忘れていたのである。
■三井寺の焼き討ち
 同じ天台宗ながら、山門派と寺門派の争いで、三井寺(園城寺)が、延暦寺派に焼き討ちされたことは過去に十四回もあったようです。今回、信長によって延暦寺が焼かれたのは、これが最初でした。東塔、西塔から山越えで京へ逃れようとしたのも、待ち構えていた織田勢に片っ端から坊主首をはねられた。有髪の僧兵たちや男女僧俗で首を切られたもの三千人と言われています。
■昭和の発掘調査で焼跡から出た謎
 しかし、この焼き討ち事件が本当にあったのかどうか、疑問を投げかける調査があるのです。
 それは、昭和三十一年(一九五六)に行われた滋賀県文化財保護課で、比叡山の発掘調査です。火災で消失した延暦寺大講堂の再建、三十三年の比叡山ドライブウェイ、四十一年の奥比叡ドライブウェイの開通工事を機に行われました。携わった技師の一人兼康保明氏の調査報告書によると、調査は東塔、西塔、横川の三地区で地下遺構や堂塔、坊跡郡跡について行われたました。しかし、延暦寺が「元亀の法難」と称している焼亡の跡だといえるものは、根本中堂と大講堂のみであるということが判明。元亀以前にすでに廃絶しているものが大半を占め、元亀の焼亡を示す例は、きわめて少なかったそうです。出土遺物についても、年代的に見て戦国時代のものはほとんどなく、平安時代の遺物が多く、一部室町時代のものもあるが、いずれも元亀以前のものばかりだったようです。
 (兼康氏)「『多聞院日記』などにみられるように、僧衆の多くは坂本に下り、生活の場もすでに山を離れていたと考えざるを得ない。つまり全山数百の諸堂が紅蓮の炎に包まれ、大殺戮が繰り広げられたとするイメージを生み出すのとは打って変わった、閑散たる光景しか存在しなかったのが、現実である。このようなことは山上の放火・掃討がわずか二、三日ときわめて短期間であったことからもうかがえよう」と報告書で述べておられます。
 では、「比叡山」の焼き討ちはあったのかどうか。比叡山が焼き討ちにあった場合には、京都や琵琶湖沿岸の各地から見えるくらいだったでしょう。京都の大文字焼きのように、山のごくごく一部で火を焚いても遠くまで見えますのに、山全体が一気に焼けたら、それはそれは。しかも、街灯などもなく、自動車も走っていない時代です。夜は、暗かったと思います。ですから、焼き討ちの記録が残っているのは、
・ウソだった(信長の評価を下げたい後世の何者かによる策略か、創作のたぐいか)
・話に尾ひれがついた。
・本当だったが、比叡山ではなく麓の坂本が焼き討ちにあった。
のどれかだったでしょうが、そのうち、最後の肢が近いのではないかと思います。
 『信長公記』に書かれているような放火炎上や大殺戮は、坂本の町に集中して行われ、日吉大社や神輿、西教寺も焼かれ、信長の利用を拒否した僧侶の本坊や宿坊も坂本の町家とともに炎上し、僧侶や町民や遊女もみな捕らえられて、坂本に集めて首を斬でしょう。
 その坂本の復興に、大いに努力したのが、坂本城主明智光秀であり、彼が信長に謀反を起こして自害に追いやったのは、何かを暗示しているのでしょうか。