日本史を中心に、そのときどきに応じて、仕入れたことを書いていきます。基本的に史実に忠実にして、ウソがない前提で、遊んでいます。 ここ最近は、戦国時代~江戸時代初期です。 NHK大河「軍師官兵衛」の主役である黒田官兵衛を中心に書いていきます。 官兵衛のことを、もっと知ってほしい!!!
2013年12月17日火曜日
官兵衛の臨終場面
かなり話が飛びますが、官兵衛の臨終場面は、彼がキリシタン信仰の熱心さを教えてくれます。
官兵衛「神父を呼んでくれ・・・ロザリオをくれ」
家臣「承知致しました」
しかし、神父は現れなかった。
官兵衛「長政、わしの合子甲と鎧は栗山利安に与える。これをわしを思い、忠勤を励んでくれ。」
長政・栗山「承知致しました(涙)。」
官兵衛「あと、博多に教会を建て教団を保護して欲しい。その教会にわしを葬ってくれ」
長政「父上・・・承知致しました。そこまで、伴天連のことを・・・」
官兵衛「頼んだぞ、長政」
伏見の黒田藩屋敷。二人が枕元に呼ばれたのは、官兵衛が二人を信頼したと共に、二人が官兵衛を信頼したとも言えるでしょう。
のちに、長政は博多のキリスト教会を作ることに同意します。
ただし、幕府に配慮して、官兵衛の追悼施設としての建設を認めます(教会ではなくて)。
長政が軟化し、官兵衛の弟の直之が熱心なキリシタンであったこともあり、
博多でのキリシタンの布教は一時盛んになります。
徳川幕府が慎重な姿勢であったこともあり、全国的に盛んになります。九州だけではありませんでした。愛知、東北、広島などです。
つぎに、甲冑を息子ではなく、腹心の部下に与えたことも意味があります。
後の黒田騒動の遠因となったからです。栗山利安の子栗山大膳が黒田家の忠義を貫いたのも、
官兵衛の甲冑を家宝とし、黒田家への命懸けのご奉公を家訓としたことから生じたものだと思います。
ご存知ない方のために・・・・
「黒田騒動(くろだそうどう)は、福岡藩で発生したお家騒動。栗山大膳事件(くりやまだいぜんじけん)ともいう。伊達騒動、加賀騒動または仙石騒動とともに三大お家騒動と呼ばれる。
長政は世継ぎ継承にあたり長男忠之の狭器と粗暴な性格を憂い、三男の長興に家督を譲ると決め忠之に書状を送る。書状には二千石の田地で百姓をするか、一万両を与えるから関西で商人になるか、千石の知行で一寺建立して僧侶になるかと非常に厳しいものであった。これに後見役の栗山大膳は、辱めを受けるのなら切腹をとの対応を忠之に進める。そして六百石以上二千石未満の藩士の嫡子達を集め、長政に対して廃嫡を取りやめなければ全員切腹すると血判状をとった。この事態を重く見た長政は嘆願を受け入れ、大膳を後見役に頼んだ後に死去。大膳はそこで忠之に諌書を送ったが、これが飲酒の心得や早寝早起きなど子供を諭すような内容だったため、忠之は大膳に対し立腹、次第に距離を置くようになる。2代藩主・忠之は寛永元年(1624年)藩主就任早々、彼とその側近と筆頭家老・栗山利章(大膳)など宿老との間に軋轢を生じ、生前の長政が憂いていたとおりにお家騒動へと発展した。忠之は児小姓から仕えていた倉八十太夫(くらはち じゅうだゆう)を側近として抱え、1万石の大身とした。そして十太夫に命じ豪華な大船・鳳凰丸を建造、更に200人の足軽を新規に召し抱えるなど、軍縮の時代にあってそれに逆行する暴政を行った。これにより遂に幕府より咎めを受けるに至った。栗山利章は寛永9年(1632年)6月、藩主が幕府転覆を狙っていると幕府に上訴した。このため幕閣は利章を尋問した。寛永10年(1633年)2月、幕府は所領安堵の触れを出し10年に及ぶ抗争に幕を閉じた。利章は騒動の責を負って陸奥国の盛岡藩預かりとなり、十太夫も追放された。なお、十太夫は島原の乱で黒田家に戻り鎮圧軍に従軍したが、戦死した。
この事件を森鷗外が小説『栗山大膳』において、改易を危惧した利章が黒田家を守るために尋問の場で訴えたとして脚色し描いている。十太夫は、島原の乱で一揆軍に加わり戦死したことになっている。(Wikipediaより)
また、官兵衛が家臣たちの殉死を禁止していなければ、栗山利安は殉死していたかも知れない。しかし、官兵衛が禁止しました。これは、彼はキリシタンだったから、自殺を禁止したことの延長線上にあったこともあるでしょうし、無駄死をやめて長政に仕えて欲しいという気持ちからだとも思えます。
2013年12月16日月曜日
官兵衛が攻城用兵器を繰り出して城攻めを成功させた事例
突然ですが、
■官兵衛が攻城用兵器を繰り出して城攻めを成功させた事例
①四国征伐のとき、阿波岩倉城攻めで井楼を築いた
岩倉城が要害だったため、犠牲を増やさないため、力攻めをやめ、井楼を築かせ、
その上から日に数回城内に向けて鉄砲を打掛けさせました。
鉄砲は、火縄銃ではなく、抱え大砲だったと思われます。なぜなら、城方の動揺を与えるためには、それなりの威力が必要だからです。通常の鉄砲は射程が50~100mで、弾も大きくありませんからね。
さらに、寄せ手(城を攻める軍勢)が鬨の声をあげて、その声が山間にこだまし、城方を疲労させたりして、損害を少なく、城を開城させます(城将、長宗我部掃部頭親興は土佐へ逃げます)。
②朝鮮の晋州城攻めで、亀甲車を利用して、城壁に無傷で接近し、城壁を登って、城を落とした。
加藤清正と共同で攻め、亀甲車を利用したので、あたかも加藤清正の家臣が発明して製作したかのように語られている場合もあるが、亀甲車の利用を勧めたのは、官兵衛であったかも知れないと思う。
亀甲車とは、文字通り亀の甲羅のように装甲を貼った車の中に人を乗り込ませ、装甲が火矢を通さず、牛の毛皮を使っていて難燃性で、石を落とされて攻撃されてもびくともしない、というものです。
亀甲車は、中国の兵学書に書かれているので、兵学に通じたものなら知っているものでした。しかし、我が国の山城には使用が困難でした。それを朝鮮の平城で使用することを発案するためには、中国の兵学書に精通していて思いついたか、あるいは、明軍、朝鮮軍またはゲリラが使っているのを見て真似したか、または、キリスト教の宣教師から西洋の亀甲車の知識を教えてもらったか・・・・後者であれば、加藤清正はキリシタンではなかったし、嫌っていたから、キリシタンだった官兵衛の方に分がある。
後藤又兵衛が手柄を立て、晋州城は落ちます。
ちなみに、晋州城は福岡城を築城する際に、参考にされた城の一つです。
以上のように、新兵器もうまく利用しつつ、敵方の心理を巧みに圧迫して、城を攻め落とした官兵衛でした。
■官兵衛が攻城用兵器を繰り出して城攻めを成功させた事例
①四国征伐のとき、阿波岩倉城攻めで井楼を築いた
岩倉城が要害だったため、犠牲を増やさないため、力攻めをやめ、井楼を築かせ、
その上から日に数回城内に向けて鉄砲を打掛けさせました。
鉄砲は、火縄銃ではなく、抱え大砲だったと思われます。なぜなら、城方の動揺を与えるためには、それなりの威力が必要だからです。通常の鉄砲は射程が50~100mで、弾も大きくありませんからね。
さらに、寄せ手(城を攻める軍勢)が鬨の声をあげて、その声が山間にこだまし、城方を疲労させたりして、損害を少なく、城を開城させます(城将、長宗我部掃部頭親興は土佐へ逃げます)。
②朝鮮の晋州城攻めで、亀甲車を利用して、城壁に無傷で接近し、城壁を登って、城を落とした。
加藤清正と共同で攻め、亀甲車を利用したので、あたかも加藤清正の家臣が発明して製作したかのように語られている場合もあるが、亀甲車の利用を勧めたのは、官兵衛であったかも知れないと思う。
亀甲車とは、文字通り亀の甲羅のように装甲を貼った車の中に人を乗り込ませ、装甲が火矢を通さず、牛の毛皮を使っていて難燃性で、石を落とされて攻撃されてもびくともしない、というものです。
亀甲車は、中国の兵学書に書かれているので、兵学に通じたものなら知っているものでした。しかし、我が国の山城には使用が困難でした。それを朝鮮の平城で使用することを発案するためには、中国の兵学書に精通していて思いついたか、あるいは、明軍、朝鮮軍またはゲリラが使っているのを見て真似したか、または、キリスト教の宣教師から西洋の亀甲車の知識を教えてもらったか・・・・後者であれば、加藤清正はキリシタンではなかったし、嫌っていたから、キリシタンだった官兵衛の方に分がある。
後藤又兵衛が手柄を立て、晋州城は落ちます。
ちなみに、晋州城は福岡城を築城する際に、参考にされた城の一つです。
以上のように、新兵器もうまく利用しつつ、敵方の心理を巧みに圧迫して、城を攻め落とした官兵衛でした。
2013年12月14日土曜日
豊臣政権が一代で崩壊し、家康の天下になった要因
豊臣政権が一代で崩壊し、家康の天下になった要因
日の出の勢いだった織田信長でさえ、天下布武の志の半ばで、家臣の裏切りにあって亡くなりました。
秀吉は家臣の中のナンバーワン1であったわけではありません。しかも、織田家の庶子がおり、彼らが信長の跡を継ぐものと思われていました。明智光秀を討って終わりではありません。
敵討ちという戦功があったものの、秀吉を快く思わない家臣もいたため、彼自身が天下をとるには、さらにもう一働きも二働きもする必要がありました。
黒田官兵衛をはじめとする家臣や、織田家の宿老たち、他の大名家(上杉、毛利)などの支持を取り付け、反対勢力を各個撃破して、圧倒的有利な状況を作り出していったわけです。
秀吉の軽妙なわざで人の懐に入り込む、褒美を与えて操縦する、というやり方自体が、強みだったといわれますが、そのやり方自体が仇となって、一代で政権が崩壊してしまった、と『名将言行録』に詳しく書かれています。また、どうして家康が政権を握るに至ったかも同様に書かれていますので、ご紹介いたします。
黒田官兵衛の項です。
官兵衛本人が言ったかどうかは不明です。『名将言行録』自体は史料価値は高くなく、後世になって「あとづけ」で創作された可能性があります。だから、評論家のあとづけ講釈として読めば、誤らないでしょう。
長いので、できるだけコンパクトに縮めます。
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もしかしたら、どこかで似たような評論に接したことがある方もいらっしゃるかも知れませんね。
「太閤が天下人になったからには、威厳を持って、行儀を正しくし、信念を持って国を治めれば、次代への相続も容易だろうが、」とあり、威厳が全くなかったわけではないが、やはり譜代の臣があまり強力ではなく、毛利・上杉をはじめ、大勢力への気遣いが必要で、徳川幕府のような武断政治で、どんどん外様の力を削っていくことは難しかったでしょう。困難は必至です。
譜代の臣といえる子飼いの武将や、三成をはじめとする吏僚派武将たちがいましたが、彼らを世継ぎの下に組織化する時間がないまま、朝鮮に出兵してしまったのは失敗だったでしょう。
前田利家と徳川家康以外は、膨大な戦費や死傷者を出して、国力がダウンしてしまったことは、家康の台頭を招きやすかったのではないでしょうか。
秀吉が長く続いた戦国の世をいったん終わらせた功績は変わることはないでしょう。
他の武将にはできない離れ業だったわけで、それを受け継いでいくことに暗かった、というべきでしょうか。
日の出の勢いだった織田信長でさえ、天下布武の志の半ばで、家臣の裏切りにあって亡くなりました。
秀吉は家臣の中のナンバーワン1であったわけではありません。しかも、織田家の庶子がおり、彼らが信長の跡を継ぐものと思われていました。明智光秀を討って終わりではありません。
敵討ちという戦功があったものの、秀吉を快く思わない家臣もいたため、彼自身が天下をとるには、さらにもう一働きも二働きもする必要がありました。
黒田官兵衛をはじめとする家臣や、織田家の宿老たち、他の大名家(上杉、毛利)などの支持を取り付け、反対勢力を各個撃破して、圧倒的有利な状況を作り出していったわけです。
秀吉の軽妙なわざで人の懐に入り込む、褒美を与えて操縦する、というやり方自体が、強みだったといわれますが、そのやり方自体が仇となって、一代で政権が崩壊してしまった、と『名将言行録』に詳しく書かれています。また、どうして家康が政権を握るに至ったかも同様に書かれていますので、ご紹介いたします。
黒田官兵衛の項です。
官兵衛本人が言ったかどうかは不明です。『名将言行録』自体は史料価値は高くなく、後世になって「あとづけ」で創作された可能性があります。だから、評論家のあとづけ講釈として読めば、誤らないでしょう。
長いので、できるだけコンパクトに縮めます。
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―豊臣政権が二代続かない理由
太閤が天下を治める様子による。
懐に入る身軽さ、色々と褒美を与えるから、親しみをもたれたが、真の忠誠心をもたれたわけではない。
太閤の世には、その身の果報や武勇からどのようにしても治まるが、子の代で同じやり方は通じない。威厳が失われるし、武功が元々ないから、人々から軽んじられるだろう。それを反対に、威を振るったら、太閤すらそうであったのにと不満が出て、世間のそうした気詰まりがでてきたことに飽く者も出てくる。しかし、太閤のように知行や財宝を与えることなど、とてもできないから、親しむ心がなくなり、諸将の離反を招き世が乱れるのは必定。
太閤が天下人になったからには、威厳を持って、行儀を正しくし、信念を持って国を治めれば、次代への相続も容易だろうが、今の状態では二代は続かない。
―家康が天下人になった理由
家康は大身で、老巧で、武勇は天下無双。日常の行ないも律儀で、人々は皆彼を尊敬している。
また、生来の口不調法であり、人が失敗したり軽薄な行動をしても、見下げたり怒ったりすることもなく、その人の真の意思を汲み取る。
武の道については、その自信は人後におちない。太閤の面前で、長久手の武功を素直に言ってのけるくらいだから、自然に家康に一目置くようになり、心中で怖れるようになった。
だから、太閤のあとには、家康に天下が帰するであろう」と。のちに果たして孝高のいったとおりになった。
もしかしたら、どこかで似たような評論に接したことがある方もいらっしゃるかも知れませんね。
「太閤が天下人になったからには、威厳を持って、行儀を正しくし、信念を持って国を治めれば、次代への相続も容易だろうが、」とあり、威厳が全くなかったわけではないが、やはり譜代の臣があまり強力ではなく、毛利・上杉をはじめ、大勢力への気遣いが必要で、徳川幕府のような武断政治で、どんどん外様の力を削っていくことは難しかったでしょう。困難は必至です。
譜代の臣といえる子飼いの武将や、三成をはじめとする吏僚派武将たちがいましたが、彼らを世継ぎの下に組織化する時間がないまま、朝鮮に出兵してしまったのは失敗だったでしょう。
前田利家と徳川家康以外は、膨大な戦費や死傷者を出して、国力がダウンしてしまったことは、家康の台頭を招きやすかったのではないでしょうか。
秀吉が長く続いた戦国の世をいったん終わらせた功績は変わることはないでしょう。
他の武将にはできない離れ業だったわけで、それを受け継いでいくことに暗かった、というべきでしょうか。
2013年12月11日水曜日
NHK大河「葵三代」の関ヶ原~黒田長政の出番~
(余談)日本代表GK川口能活さん
磐田を退団し、移籍先を検討、と報じられました(2013年12月11日)。
彼は、高校時代からスター選手で注目されていましたが、
私としては、アジアカップのヨルダン戦でのスーパーセーブが鮮烈に覚えていますね。
試合中に中国人のサポーターがヨルダンを応援しはじめて、うるさいのなんのって。
同点でPK戦にもつれ込み。やじが飛ぶ中で、日本は二人が外し、絶体絶命。
そこから、なんと、キャプテン宮本がゴールのサイドが替えるように、レフェリーに進言し、容れられて仕切り直し。
そこから、川口がスーパーセーブを2回、敵のミスも1回誘い、
勝っちゃったんです、なんと。もう神がかりでしたね。
ご記憶の方もいらっしゃるでしょう。
私はあの時の感動は今でも忘れていません。
(本題)では、本題(笑)
黒田長政は、父官兵衛から家康方につくように、吉川広家や小早川秀秋を引き込んで毛利方の動きを封じつつ、豊臣恩顧の大名たちの動向に注意し、福島正則を抱き込んで、彼らを家康方につけることに成功したことは、有名な話しです。
ただ、三成が頑張り、何とか互角の勝負ができるように、いろいろな大名を味方に引き入れます。
大企業豊臣商事の課長クラスの三成が、よくもまあ、あんだけ人を集めてきたなあ、と司馬遼太郎氏も、関ヶ原のドラマにインタビューで答えておられます。
そのため、家康は黒田長政を使って、豊臣恩顧の大名が寝返らないように、画策するわけです。
結果として、毛利勢(毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊の南宮山、小早川秀秋の松尾山)の離反を誘い、徳川勢は秀忠の本隊の遅参の失策を補います。
もし、(は禁物ですが)毛利勢、長宗我部勢が、抑えだった池田輝政隊、山内一豊隊らに襲いかかったら、おそらく支えきれずに後退し、そこに寺沢隊、家康の旗本から兵を割かざるを得なかったでしょう。
小早川秀秋の寝返りがあるまでは、西軍が優勢だったと言われており、家康の脅しによって小早川秀秋が果たして寝返ったかどうか、微妙です。
戦う前から調略によって、有利にことを進めていた家康。
吉川広家は毛利勢を釘付けにして、勝利に貢献したのは間違いないですが、
毛利輝元の書状が見つかって、西軍に積極的に加担したことが発覚し、
毛利本家の領土が没収されそうになります。しかし、吉川広家の周旋により、
自らが宛てがわれる予定だった防長を、毛利本家に残すことを許されました。
輝元の書状を見せて、吉川広家を詰問する、福島正則、黒田長政らが、旧毛利領や小早川領に入封するのが象徴的(小早川秀秋は領地を没収されたのではなく岡山に加増転封ですが)でした。
吉川広家にしても、家康について毛利の安泰を図ろうとしたという見通しは正しかったですが、
毛利輝元の日和見が災いしたか、大幅な減封となります。
書状が証拠になって詰問されたわけです。
やはり内通するにしても書状などの証拠を残しておかないと、口約束だけで寝返りを約束して、所領を減らされたり没収されたりした大名もいます。
もしかしたら、毛利グループからは、リスクヘッジのため輝元は大坂城で日和見、秀元、安国寺は西軍、広家は東軍、小早川秀秋は微妙(東軍の調略を受けたと見せかけて、有利な方につこうとしたか)、でどちらか一方につくと、滅亡のリスクがあったので、両方に脚を突っ込んでいたのでしょうか?
そういう大名は他に多かった。家族で東西に分かれて戦った、ということが涙ながらに語られるドラマが多いですが、私はそこには冷徹な、お家存続のためのリスクヘッジがあったと考えています。
確かに悲しい気持ちはあるでしょう。しかし、命を捨ててお家存続を図ることが至上命題だったのです。命を大事にする、という現代人の感覚とは一線を画します。
ということで、西軍には脚を突っ込まず、運命を切り開いた官兵衛と長政と対照的な姿。
しかし、長政の調略がうまく効きすぎたのか、関ヶ原の戦いが半日で勝負を決してしまいます。
もう少し篭城戦が各地で展開されていたら、秀忠の本隊も美濃に到着し、戦況は膠着していたかも知れません。ただ、石田三成も金を使い果たしており、これ以上の長期戦は無理だったから、決戦を急いだ、とも言われていますが。
もし、もう三ヶ月あったら、官兵衛は少なくとも九州は統一していたでしょうか。現実には、久留米の毛利秀包、柳川の立花宗茂、佐賀の鍋島が、西軍のままで、攻撃が難航したかも知れません。ただ、何とか調略も駆使して統一するのが精一杯。
そこから、加藤清正を九州の守備に残し、毛利領地に侵入しながら、播磨姫路に上陸して大坂城を包囲・・・毛利輝元と交戦して勝利・・・西軍は籠城、奉行の周旋で停戦・・・では、官兵衛の運命は?毛利を飲み込んでの第三勢力として。あるいは、秀頼を頂いて、家康と対峙する・・・
やはり、天下をとるのは難しそうですね。家康との国力の差は明らかですから、今回の戦で、相当な出費があって疲弊している間に、決戦を挑むしか。
ただ、諸将が官兵衛の下知に従えばの話しですが。そうでなければ、小牧長久手の再現があるだけ。
官兵衛のIF本も作ってみたいですね。
では、またお会いしましょう。ここまで、お読みいただき、誠にありがとうございました。
(余談)日本代表GK川口能活さん
磐田を退団し、移籍先を検討、と報じられました(2013年12月11日)。
彼は、高校時代からスター選手で注目されていましたが、
私としては、アジアカップのヨルダン戦でのスーパーセーブが鮮烈に覚えていますね。
試合中に中国人のサポーターがヨルダンを応援しはじめて、うるさいのなんのって。
同点でPK戦にもつれ込み。やじが飛ぶ中で、日本は二人が外し、絶体絶命。
そこから、なんと、キャプテン宮本がゴールのサイドが替えるように、レフェリーに進言し、容れられて仕切り直し。
そこから、川口がスーパーセーブを2回、敵のミスも1回誘い、
勝っちゃったんです、なんと。もう神がかりでしたね。
ご記憶の方もいらっしゃるでしょう。
私はあの時の感動は今でも忘れていません。
(本題)では、本題(笑)
黒田長政は、父官兵衛から家康方につくように、吉川広家や小早川秀秋を引き込んで毛利方の動きを封じつつ、豊臣恩顧の大名たちの動向に注意し、福島正則を抱き込んで、彼らを家康方につけることに成功したことは、有名な話しです。
ただ、三成が頑張り、何とか互角の勝負ができるように、いろいろな大名を味方に引き入れます。
大企業豊臣商事の課長クラスの三成が、よくもまあ、あんだけ人を集めてきたなあ、と司馬遼太郎氏も、関ヶ原のドラマにインタビューで答えておられます。
そのため、家康は黒田長政を使って、豊臣恩顧の大名が寝返らないように、画策するわけです。
結果として、毛利勢(毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊の南宮山、小早川秀秋の松尾山)の離反を誘い、徳川勢は秀忠の本隊の遅参の失策を補います。
もし、(は禁物ですが)毛利勢、長宗我部勢が、抑えだった池田輝政隊、山内一豊隊らに襲いかかったら、おそらく支えきれずに後退し、そこに寺沢隊、家康の旗本から兵を割かざるを得なかったでしょう。
小早川秀秋の寝返りがあるまでは、西軍が優勢だったと言われており、家康の脅しによって小早川秀秋が果たして寝返ったかどうか、微妙です。
戦う前から調略によって、有利にことを進めていた家康。
吉川広家は毛利勢を釘付けにして、勝利に貢献したのは間違いないですが、
毛利輝元の書状が見つかって、西軍に積極的に加担したことが発覚し、
毛利本家の領土が没収されそうになります。しかし、吉川広家の周旋により、
自らが宛てがわれる予定だった防長を、毛利本家に残すことを許されました。
輝元の書状を見せて、吉川広家を詰問する、福島正則、黒田長政らが、旧毛利領や小早川領に入封するのが象徴的(小早川秀秋は領地を没収されたのではなく岡山に加増転封ですが)でした。
吉川広家にしても、家康について毛利の安泰を図ろうとしたという見通しは正しかったですが、
毛利輝元の日和見が災いしたか、大幅な減封となります。
書状が証拠になって詰問されたわけです。
やはり内通するにしても書状などの証拠を残しておかないと、口約束だけで寝返りを約束して、所領を減らされたり没収されたりした大名もいます。
もしかしたら、毛利グループからは、リスクヘッジのため輝元は大坂城で日和見、秀元、安国寺は西軍、広家は東軍、小早川秀秋は微妙(東軍の調略を受けたと見せかけて、有利な方につこうとしたか)、でどちらか一方につくと、滅亡のリスクがあったので、両方に脚を突っ込んでいたのでしょうか?
そういう大名は他に多かった。家族で東西に分かれて戦った、ということが涙ながらに語られるドラマが多いですが、私はそこには冷徹な、お家存続のためのリスクヘッジがあったと考えています。
確かに悲しい気持ちはあるでしょう。しかし、命を捨ててお家存続を図ることが至上命題だったのです。命を大事にする、という現代人の感覚とは一線を画します。
ということで、西軍には脚を突っ込まず、運命を切り開いた官兵衛と長政と対照的な姿。
しかし、長政の調略がうまく効きすぎたのか、関ヶ原の戦いが半日で勝負を決してしまいます。
もう少し篭城戦が各地で展開されていたら、秀忠の本隊も美濃に到着し、戦況は膠着していたかも知れません。ただ、石田三成も金を使い果たしており、これ以上の長期戦は無理だったから、決戦を急いだ、とも言われていますが。
もし、もう三ヶ月あったら、官兵衛は少なくとも九州は統一していたでしょうか。現実には、久留米の毛利秀包、柳川の立花宗茂、佐賀の鍋島が、西軍のままで、攻撃が難航したかも知れません。ただ、何とか調略も駆使して統一するのが精一杯。
そこから、加藤清正を九州の守備に残し、毛利領地に侵入しながら、播磨姫路に上陸して大坂城を包囲・・・毛利輝元と交戦して勝利・・・西軍は籠城、奉行の周旋で停戦・・・では、官兵衛の運命は?毛利を飲み込んでの第三勢力として。あるいは、秀頼を頂いて、家康と対峙する・・・
やはり、天下をとるのは難しそうですね。家康との国力の差は明らかですから、今回の戦で、相当な出費があって疲弊している間に、決戦を挑むしか。
ただ、諸将が官兵衛の下知に従えばの話しですが。そうでなければ、小牧長久手の再現があるだけ。
官兵衛のIF本も作ってみたいですね。
では、またお会いしましょう。ここまで、お読みいただき、誠にありがとうございました。
2013年12月9日月曜日
NHK大河ドラマ「葵三代」を見ました(関ヶ原の戦いまで)
秀吉公の逝去から関ヶ原の戦いまでの流れについて、ご存知ない方にはオススメです!
異論がある場面はあるでしょうが、NHKが本気になれば、これくらい作れるんだということなんでし
ょうね。
役者が揃っていて、合戦の場面も迫力があって、非常によかった。
島左近を演じられた夏八木勲さん、最近お亡くなりになったと聞いています。ご冥福をお祈り致します。
NHK大河の毛利元就の陶興房、真田太平記では壺谷又五郎(忍びの頭領)をはじめ、非常に多くのドラマに出演された名優で、その佇まいや重厚な声など好きな俳優さんでした。
大河や時代劇にはたびたびご出演され、味のある演技は非常に好きでした。
夏八木さんが演じられた島左近は、戦が苦手な石田三成を補佐し、関ヶ原の緒戦の杭瀬川の戦いで勝利を得るなどして、後世、「石田三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と言われております。彼は十九万石の石田三成の知行地の約半分という高禄をもって召抱えられていました。その恩に報いるため、奮戦し、関ヶ原の戦いで討ち死にします。
最期、関ヶ原で銃撃され、果てるシーンが最高です。三成に抱きかかえられ、「一命を駆けて申し候」と言って、果てます。
さて、NHK大河「葵三代」の中で、黒田長政の動きに注目してみていました。
たびたび家康に忠誠を尽くしており、秀吉の死後当初から徳川方であることを鮮明にしていたことから、家康から信頼を得ます。ただ、家康は豊臣恩顧の大名たちを疑っており、家康本隊は関東に留まったまま、しばらく動かず、彼らだけを先に美濃方面に行かせます。
会津の上杉、常陸の佐竹を牽制するため、関東を動けない事情もありましたが、三成の押さえとしては、上記の豊臣恩顧の諸将の軍勢で十分であって、彼らが本当に寝返らないかどうか、試したという見方が取られています。
小早川秀秋、吉川広家らの調略をはじめ、勝利を得るのに重要な働きをしたのですが、
それについては、ある程度描かれていて、好印象でしたが、やはり主役ではないので、クローズアップされていませんでした。
演じる山下真司さんは、自分的には結構はまり役かな。
これについては、もっと深く視聴して、書いていきます。
――――――――――――――――――――――――――――――――
発行:黒田官兵衛研究所
メルマガ:まぐまぐ「ホンマやろか!?黒田官兵衛 歴史こぼれ話~2014年大河ドラマを楽しもう 」
もお楽しみください。
秀吉公の逝去から関ヶ原の戦いまでの流れについて、ご存知ない方にはオススメです!
異論がある場面はあるでしょうが、NHKが本気になれば、これくらい作れるんだということなんでし
ょうね。
役者が揃っていて、合戦の場面も迫力があって、非常によかった。
島左近を演じられた夏八木勲さん、最近お亡くなりになったと聞いています。ご冥福をお祈り致します。
NHK大河の毛利元就の陶興房、真田太平記では壺谷又五郎(忍びの頭領)をはじめ、非常に多くのドラマに出演された名優で、その佇まいや重厚な声など好きな俳優さんでした。
大河や時代劇にはたびたびご出演され、味のある演技は非常に好きでした。
夏八木さんが演じられた島左近は、戦が苦手な石田三成を補佐し、関ヶ原の緒戦の杭瀬川の戦いで勝利を得るなどして、後世、「石田三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と言われております。彼は十九万石の石田三成の知行地の約半分という高禄をもって召抱えられていました。その恩に報いるため、奮戦し、関ヶ原の戦いで討ち死にします。
最期、関ヶ原で銃撃され、果てるシーンが最高です。三成に抱きかかえられ、「一命を駆けて申し候」と言って、果てます。
さて、NHK大河「葵三代」の中で、黒田長政の動きに注目してみていました。
たびたび家康に忠誠を尽くしており、秀吉の死後当初から徳川方であることを鮮明にしていたことから、家康から信頼を得ます。ただ、家康は豊臣恩顧の大名たちを疑っており、家康本隊は関東に留まったまま、しばらく動かず、彼らだけを先に美濃方面に行かせます。
会津の上杉、常陸の佐竹を牽制するため、関東を動けない事情もありましたが、三成の押さえとしては、上記の豊臣恩顧の諸将の軍勢で十分であって、彼らが本当に寝返らないかどうか、試したという見方が取られています。
小早川秀秋、吉川広家らの調略をはじめ、勝利を得るのに重要な働きをしたのですが、
それについては、ある程度描かれていて、好印象でしたが、やはり主役ではないので、クローズアップされていませんでした。
演じる山下真司さんは、自分的には結構はまり役かな。
これについては、もっと深く視聴して、書いていきます。
――――――――――――――――――――――――――――――――
発行:黒田官兵衛研究所
メルマガ:まぐまぐ「ホンマやろか!?黒田官兵衛 歴史こぼれ話~2014年大河ドラマを楽しもう 」
もお楽しみください。
2013年12月4日水曜日
まぐまぐメルマガ「ホンマやろか!?黒田官兵衛」の紹介、大分県別府市の史跡巡り、(おまけ)別府杉乃井ホテルのイルミネーション
今日はちょっと脱線。
さて、今回は、いわゆる九州関ヶ原での官兵衛の戦いの史跡巡りということで、大分県別府にやって参りました。
最近、「おんせん県おおいた」で商標登録したことが話題になっていましたよね。
下の地図をみてください。大分県の地図です。本当に温泉が多いですよね。
特に別府は昔から有名な温泉地でした。
来年から大河ドラマで黒田官兵衛が始まります。というわけで、今回は官兵衛の話しです。
写真は、ふくおか官兵衛くん。「軍師官兵衛」福岡プロジェクト協議会のPRキャラクターです。
この姿で描かれた絵をご覧になったことがある方も多いと思います。
有名な合子兜(ごうすなりのかぶと)です。官兵衛は、これは生涯にほぼ一回しか身につけていなかったと言われています。ではいつ身につけたの?(九州)関ヶ原のときでしょ(笑)流行語大賞おめでとうございます(笑)
写真は、ふくおか官兵衛くん。「軍師官兵衛」福岡プロジェクト協議会のPRキャラクターです。
この姿で描かれた絵をご覧になったことがある方も多いと思います。
有名な合子兜(ごうすなりのかぶと)です。官兵衛は、これは生涯にほぼ一回しか身につけていなかったと言われています。ではいつ身につけたの?(九州)関ヶ原のときでしょ(笑)流行語大賞おめでとうございます(笑)
官兵衛の人生で一際輝いたのが、関ヶ原の戦いの頃に、九州での鮮やかな軍事行動でしょう。
これがもとになって、天下を狙ったんではないかとの憶測が生まれ、何か凄いよね、とか、でも天下取れなくて残念だね、とか、いう風な風評被害に見舞われる原因になったんです(笑)
以下が、ダウンタウンの松本人志が黒田官兵衛について語った動画です(動画が削除されてしまっていたら、「松本 官兵衛」などのワードでYou tubeにて検索してみてください)。
https://www.youtube.com/watch?v=J6zUh4VGOVs
黒田官兵衛はどちらかというと、マイナーかも知れません。
歴史ファンは名前くらいはご存知でしょう。
何をやったのか?というのは、
まぐまぐのメルマガ「ホンマやろか!?黒田官兵衛」
を読んでみてください!
これがもとになって、天下を狙ったんではないかとの憶測が生まれ、何か凄いよね、とか、でも天下取れなくて残念だね、とか、いう風な風評被害に見舞われる原因になったんです(笑)
以下が、ダウンタウンの松本人志が黒田官兵衛について語った動画です(動画が削除されてしまっていたら、「松本 官兵衛」などのワードでYou tubeにて検索してみてください)。
https://www.youtube.com/watch?v=J6zUh4VGOVs
黒田官兵衛はどちらかというと、マイナーかも知れません。
歴史ファンは名前くらいはご存知でしょう。
何をやったのか?というのは、
まぐまぐのメルマガ「ホンマやろか!?黒田官兵衛」
を読んでみてください!
さて、今回は、いわゆる九州関ヶ原での官兵衛の戦いの史跡巡りということで、大分県別府にやって参りました。
最近、「おんせん県おおいた」で商標登録したことが話題になっていましたよね。
下の地図をみてください。大分県の地図です。本当に温泉が多いですよね。
特に別府は昔から有名な温泉地でした。
別府には杉乃井パレスっていう老舗の旅館があります。有名です。
その客室からは、別府市が一望できます。別府市の「観海寺温泉」にある旅館です。「観海」ということで、別府湾が一望できる眺望が抜群の旅館です。
しかも、私が宿泊したのが海側に面した9階だったので、眺望がよかったです。
客室から官兵衛が大友吉統と戦った石垣原の戦いに思いを馳せるながら、景色を眺めることができました。旅行の費用を出してくださった方に感謝!(自分でお金出せよ、と言われそうですが、すみません・・・史跡巡りはオプションナル・ツアーでした)
その客室からは、別府市が一望できます。別府市の「観海寺温泉」にある旅館です。「観海」ということで、別府湾が一望できる眺望が抜群の旅館です。
しかも、私が宿泊したのが海側に面した9階だったので、眺望がよかったです。
客室から官兵衛が大友吉統と戦った石垣原の戦いに思いを馳せるながら、景色を眺めることができました。旅行の費用を出してくださった方に感謝!(自分でお金出せよ、と言われそうですが、すみません・・・史跡巡りはオプションナル・ツアーでした)
このホテルが建っているのが、大友軍の本陣付近です(住所で言うと南立石ですので、大友軍の立石砦があった場所に近いです。詳しく言うと、ホテルの駐車場から北の方に細い道を行くと、下の写真のような本陣跡があります))。
写真中の白い仏塔が立っているのが実相寺山、その左隣が角殿山で、それぞれ黒田軍と細川軍の本陣が置かれました。
そして両軍が激突した古戦場はその中間地点(別府市荘園町)にあります。激闘の結果、官兵衛側が勝利します。
地図は、http://www.city.beppu.oita.jp/education2/kassen/ が見やすいです。
■大友義統の本陣跡
下の写真が大友義統の本陣跡です。正確には大友「吉」統ですが。義は足利将軍からもらった一字で、父の大友宗麟も義鎮と「義」の字がありますが、その後、「吉」を秀吉から一字をもらっていますから。
大友家は朝鮮の役で敵前逃亡し所領を没収されます。その後、秀吉が亡くなり、石田三成が挙兵すると、三成から味方すれば豊後国を与えることを約束された大友吉統は、京都から豊後に入り、9月9日に浜脇浦に上陸して(ちょうど、この写真をとった地点から、右の方に行った海岸です)、別府の扇状地を北に一望できるこの台地に陣を構えました。豊後において旧領回復のため、東軍方の杵築城(細川家)の攻撃します。しかし、中津城から黒田官兵衛が出撃してきたことを聞いて、いったん立石砦に引き上げます。
写真中の白い仏塔が立っているのが実相寺山、その左隣が角殿山で、それぞれ黒田軍と細川軍の本陣が置かれました。
そして両軍が激突した古戦場はその中間地点(別府市荘園町)にあります。激闘の結果、官兵衛側が勝利します。
地図は、http://www.city.beppu.oita.jp/education2/kassen/ が見やすいです。
■大友義統の本陣跡
下の写真が大友義統の本陣跡です。正確には大友「吉」統ですが。義は足利将軍からもらった一字で、父の大友宗麟も義鎮と「義」の字がありますが、その後、「吉」を秀吉から一字をもらっていますから。
大友家は朝鮮の役で敵前逃亡し所領を没収されます。その後、秀吉が亡くなり、石田三成が挙兵すると、三成から味方すれば豊後国を与えることを約束された大友吉統は、京都から豊後に入り、9月9日に浜脇浦に上陸して(ちょうど、この写真をとった地点から、右の方に行った海岸です)、別府の扇状地を北に一望できるこの台地に陣を構えました。豊後において旧領回復のため、東軍方の杵築城(細川家)の攻撃します。しかし、中津城から黒田官兵衛が出撃してきたことを聞いて、いったん立石砦に引き上げます。
■黒田官兵衛本陣跡
次の写真が、黒田軍・細川軍の本陣が置かれた場所からの写真です。右奥に見えているのが、杉乃井ホテルです。
官兵衛は居城の中津城を出撃して、杵築城の救援に向かいます。杵築城は細川家の飛び地で、東軍側でした。大友軍が立石砦に引き揚げたので、官兵衛と細川軍はこの地に本陣を構え、対峙します。別府の中でここ以外にちょうどよい高台はなかったので、この地に本陣を構えるのは当然だったと思われます。
9月13日に両軍は激突します。
石垣原合戦です。
激突した別府市は、火山岩が城の石垣のようにころがっている平原であったので、石垣原と言われており、その平原での戦いだったので、石垣原合戦です。
下の写真は、実相寺山から西に行った住宅街の中の公園の一角にある黒田軍の本陣跡の石碑です(ヤシの木がある公園が目印です。訪ねたときには、「石垣原合戦の朱筆の幟がありました)。
この合戦で大友軍が一時優勢になります。
その一つは大友軍の右翼の吉弘嘉兵衛の働きによるものでした。吉弘嘉兵衛は牢人となり、柳河の立花家に寄宿します(立花家も元々大友家の家臣だったので)。
大友軍の右翼である吉弘嘉兵衛の働きもあり、黒田軍の武将が二人討たれ、大友軍が優勢になります。下の写真は、吉弘嘉兵衛の本陣跡です。杉乃井ホテルを出て、南の方に降りていく道沿いにあります。
ちなみに、黒田軍は主力は長政が率いて関東に出兵しており、手勢が少ない状況で、官兵衛が金庫を開いて急遽集めた寄せ集めでした。
また、大友軍は国崩しと言われる大砲を使っていました。官兵衛は、陽流大筒で対抗しますが、苦戦します。
しかし、黒田軍の井上之房が一騎打ちをして、吉弘嘉兵衛が深手を負います。これにより、息を吹き返した黒田軍は一気に大友軍を崩します。大友吉統は結局黒田軍に投降します。吉弘嘉兵衛は自害します。現在、吉弘神社に祀られています。
■大友家の関ヶ原
■吉弘嘉兵衛の死
彼が命をかけてつかもう、守ろうとしていたものは何だったのでしょうか?
主家の失地回復のために不利と知りつつ奮戦した吉弘嘉兵衛を見て、皆さんはどう感じられるでしょうか?
単なる戦国時代(というか桃山時代ですが)の合戦の一場面として見過ごされるものに過ぎないのでしょうか?
石垣原合戦です。
激突した別府市は、火山岩が城の石垣のようにころがっている平原であったので、石垣原と言われており、その平原での戦いだったので、石垣原合戦です。
下の写真は、実相寺山から西に行った住宅街の中の公園の一角にある黒田軍の本陣跡の石碑です(ヤシの木がある公園が目印です。訪ねたときには、「石垣原合戦の朱筆の幟がありました)。
この合戦で大友軍が一時優勢になります。
その一つは大友軍の右翼の吉弘嘉兵衛の働きによるものでした。吉弘嘉兵衛は牢人となり、柳河の立花家に寄宿します(立花家も元々大友家の家臣だったので)。
大友軍の右翼である吉弘嘉兵衛の働きもあり、黒田軍の武将が二人討たれ、大友軍が優勢になります。下の写真は、吉弘嘉兵衛の本陣跡です。杉乃井ホテルを出て、南の方に降りていく道沿いにあります。
ちなみに、黒田軍は主力は長政が率いて関東に出兵しており、手勢が少ない状況で、官兵衛が金庫を開いて急遽集めた寄せ集めでした。
また、大友軍は国崩しと言われる大砲を使っていました。官兵衛は、陽流大筒で対抗しますが、苦戦します。
しかし、黒田軍の井上之房が一騎打ちをして、吉弘嘉兵衛が深手を負います。これにより、息を吹き返した黒田軍は一気に大友軍を崩します。大友吉統は結局黒田軍に投降します。吉弘嘉兵衛は自害します。現在、吉弘神社に祀られています。
■大友家の関ヶ原
・当初、徳川方につこうとした大友吉統
慶長三年(1598)に秀吉が死去し、翌年に大友吉統は許され、江戸から京都へ移り、本能寺の一室に側室と男児正照とともに住みます。しかし、慶長五年(1600)、石田三成ら大坂方から末子正照と側室を大坂城に連れ去られ人質とされてしまいます。吉統は、同年九月、安芸国の大畠に下り、毛利輝元から兵船と鉄砲隊100名を与えられ、東軍徳川方から西軍に変更し、豊後入りを決意させられてしまいます。
その途中、柳川の立花宗茂のところに身を寄せていた吉弘嘉兵衛が、江戸の徳川家康や秀忠に仕えていた吉統の長男能乗に仕えるために小倉から乗船し、周防上関で吉統に出会い、東軍に味方するように説得します。しかし、吉統はそれを聞き入れず、やむなく、嘉兵衛は江戸行きを中止して、吉統に従うことにしました。
・吉弘嘉兵衛の辞世の句
明日は誰が草むす屍や照らすらん 石垣原の今日の月影
・大友吉統のその後
大友吉統は自害しようとしたが、田原紹忍に止められ、黒田如水に投降した。吉統は中津城から江戸に送られ、徳川家康から出羽の秋田実季に預けられ幽閉された。
・吉弘嘉兵衛の首
吉弘嘉兵衛は、現豊後高田市松行の金宗院に葬られました。また、別府市石垣西六丁目に吉弘神社があります(上述のとおりです)。この神社は大正11年(1922)に拝殿が建立され、拝殿の裏手西側には嘉兵衛の石柱の墓や肥後の細川家が建立した石殿が安置されています。毎年、春と秋の例祭には、吉弘家一族の方々が、各地から参集されていたそうです。
・吉弘嘉兵衛の首
「統幸の首」は首実検の後「石垣原」の獄門台にに晒されたといわれています。
統幸の戦死を聞いた「吉弘氏」の菩提寺「金宗院」の住職は「統幸」の霊を弔うため、密かに石垣原へ「統幸の首」を取り戻しに行きました。
「統幸の首」は風に光るカヤ原の中に変わり果てた姿で晒されていました。住職は涙ながらに「統幸の首」を背負い、鹿鳴越より奥畑を経由しやっとの思いで統幸の故郷「長岩屋」に帰ってきました。前の長岩屋川で統幸の首を洗おうとしました。すると「統幸の首」はカツと目を開き 「ああ! 住職よしな(吉名・やめなさい)」と叫んだのです。住職は大変驚き洗うのをやめました。そして寺(金宗院)へ持ち帰り供養しました。
それからいつしか人々は、首を洗った此の場所(長岩屋川)を「吉名川」と呼ぶようになりました。
吉弘嘉兵衛は、現豊後高田市松行の金宗院に葬られました。また、別府市石垣西六丁目に吉弘神社があります(上述のとおりです)。この神社は大正11年(1922)に拝殿が建立され、拝殿の裏手西側には嘉兵衛の石柱の墓や肥後の細川家が建立した石殿が安置されています。毎年、春と秋の例祭には、吉弘家一族の方々が、各地から参集されていたそうです。
また、別府市石垣三丁目には、吉弘嘉兵衛の菩提寺太平山宝泉寺があり、この寺には、嘉兵衛の位牌や肖像画が保管されています。
■吉弘嘉兵衛の死
彼が命をかけてつかもう、守ろうとしていたものは何だったのでしょうか?
主家の失地回復のために不利と知りつつ奮戦した吉弘嘉兵衛を見て、皆さんはどう感じられるでしょうか?
単なる戦国時代(というか桃山時代ですが)の合戦の一場面として見過ごされるものに過ぎないのでしょうか?
立花家で二千石をもらっているんだから、そんなに頑張ってリスクが嵩いことをチャレンジしなくても・・・嘉兵衛ほどの武将であれば他にも仕官口はあったでしょうに・・・と思われるでしょうか。
あるいは、負けたのだから意味がないよ、残された家族はどうするんだよと思われるでしょうか。
私は、それも理解できます。いくら何でも命は惜しいし、食いっぱぐれは避けなければならない。ただ、忠臣蔵ではないですが、彼の主君への忠義の心で、何とかしてあげたいという気持ちもあって、その純粋な気持ちに従って潔く生きたし、仮に負けたとしても多勢の敵と互角に戦って戦死すれば名を残すことができるからそれでよいと思います。
もちろん、大友家の旧領回復という大功を立てて、出世しようという功名心もあったかも知れません。忠義のために散ったというのは、実は吉弘嘉兵衛本人からしたら、不本意かも知れません。
吉弘神社は、嘉兵衛の次男正久が使えた細川家が建立したもので、関ヶ原の戦いのあとに豊前国に入封した細川家によって、吉弘嘉兵衛を祀ることで、その反感を緩めるのに利用された可能性もあるでしょう(細川家はこのあと肥後熊本に入封した際にも、加藤清正を神格化して統治に利用しています)。また、忠義に殉じた武士を顕彰することで、統治に利用しようとした可能性もあります。
ただ、武士として不利な状況にも負けずに、なんとかしよう、自分が主家をなんとか支えようという気概。この気概からは学ぶことがあるのではないでしょうか。自分だけは損をしたくない、損をしないようにうまく世渡りして勝ち組になりたい、それ以外は負け組だという風潮の中で、損得勘定だけではなく、それを超えていこうとしたかも知れない嘉兵衛を偲び、手を合わせてきました。
※石垣原合戦の様子について、江戸時代に書かれた「常山紀談」の記述を、付録として末尾に掲載していますので、興味がある方はご覧下さい。
■加藤清正像(別府市旗の台)
次に、行ったのは、黒田軍の援軍として別府までやってきた加藤清正像です。彼は三千余りの兵を率いて、熊本から別府までやってきました。清正は家康に対して、自分も会津征伐に同行したいと願い出ますが、家康から懇切に諭され、九州の東軍方は黒田官兵衛しかいないから、彼の味方をしてやってくれと言われ、しぶしぶ熊本に戻ります。そして、中津城から出撃して大友軍と交戦中との報せを受け、熊本から急いで官兵衛の加勢に向かうわけです。
湯布院から山を超えて別府湾を望む鶴見岳のあたりまで来て、戦いの様子を見てみると、黒田方が優勢。よし、引き返しても大丈夫だということで、熊本に引き返します。そのときに物見をした場所が、旗の台といわれ、現在、加藤清正の像が立てられています。彼は日蓮宗の信者だったので、日蓮の像と南無妙法蓮華経の旗印が脇にあります。別府から湯布院に抜ける県道11号沿いにあります。鶴見ロープウェーより少し湯布院方面に登ったところの茶店の脇にあります。
あるいは、負けたのだから意味がないよ、残された家族はどうするんだよと思われるでしょうか。
私は、それも理解できます。いくら何でも命は惜しいし、食いっぱぐれは避けなければならない。ただ、忠臣蔵ではないですが、彼の主君への忠義の心で、何とかしてあげたいという気持ちもあって、その純粋な気持ちに従って潔く生きたし、仮に負けたとしても多勢の敵と互角に戦って戦死すれば名を残すことができるからそれでよいと思います。
もちろん、大友家の旧領回復という大功を立てて、出世しようという功名心もあったかも知れません。忠義のために散ったというのは、実は吉弘嘉兵衛本人からしたら、不本意かも知れません。
吉弘神社は、嘉兵衛の次男正久が使えた細川家が建立したもので、関ヶ原の戦いのあとに豊前国に入封した細川家によって、吉弘嘉兵衛を祀ることで、その反感を緩めるのに利用された可能性もあるでしょう(細川家はこのあと肥後熊本に入封した際にも、加藤清正を神格化して統治に利用しています)。また、忠義に殉じた武士を顕彰することで、統治に利用しようとした可能性もあります。
ただ、武士として不利な状況にも負けずに、なんとかしよう、自分が主家をなんとか支えようという気概。この気概からは学ぶことがあるのではないでしょうか。自分だけは損をしたくない、損をしないようにうまく世渡りして勝ち組になりたい、それ以外は負け組だという風潮の中で、損得勘定だけではなく、それを超えていこうとしたかも知れない嘉兵衛を偲び、手を合わせてきました。
※石垣原合戦の様子について、江戸時代に書かれた「常山紀談」の記述を、付録として末尾に掲載していますので、興味がある方はご覧下さい。
■加藤清正像(別府市旗の台)
次に、行ったのは、黒田軍の援軍として別府までやってきた加藤清正像です。彼は三千余りの兵を率いて、熊本から別府までやってきました。清正は家康に対して、自分も会津征伐に同行したいと願い出ますが、家康から懇切に諭され、九州の東軍方は黒田官兵衛しかいないから、彼の味方をしてやってくれと言われ、しぶしぶ熊本に戻ります。そして、中津城から出撃して大友軍と交戦中との報せを受け、熊本から急いで官兵衛の加勢に向かうわけです。
湯布院から山を超えて別府湾を望む鶴見岳のあたりまで来て、戦いの様子を見てみると、黒田方が優勢。よし、引き返しても大丈夫だということで、熊本に引き返します。そのときに物見をした場所が、旗の台といわれ、現在、加藤清正の像が立てられています。彼は日蓮宗の信者だったので、日蓮の像と南無妙法蓮華経の旗印が脇にあります。別府から湯布院に抜ける県道11号沿いにあります。鶴見ロープウェーより少し湯布院方面に登ったところの茶店の脇にあります。
行ってみて気づいたのは、清正の眼がぎろっとしていることでした。不動明王かと思われるくらい眼光が鋭い。戦さの最中なので、気が張っていたからでしょうか。彼は、日蓮宗ということもあり、肥後のキリシタンを弾圧します。このことはまた、後日。
■(おまけ)杉乃井ホテルのイルミネーション
それではお待ちかねのイルミです!
杉乃井ホテルの前の道路には、200~300メートルくらいにずらーりとイルミネーションが並んでいます。
まさに夢の世界です。福岡市の警固公園みたいに人で混雑していないので、非常に快適でした(寒かったけど)。
なんと、毎年、進化しているらしいです。非常に素晴らしいので、近くに行かれる際には寄って行かれるとよいでしょう。
では、皆さん、またお会いしましょう。
■付録~「常山紀談」巻十五 330項 石垣原の戦い
■(おまけ)杉乃井ホテルのイルミネーション
それではお待ちかねのイルミです!
杉乃井ホテルの前の道路には、200~300メートルくらいにずらーりとイルミネーションが並んでいます。
まさに夢の世界です。福岡市の警固公園みたいに人で混雑していないので、非常に快適でした(寒かったけど)。
なんと、毎年、進化しているらしいです。非常に素晴らしいので、近くに行かれる際には寄って行かれるとよいでしょう。
では、皆さん、またお会いしましょう。
■付録~「常山紀談」巻十五 330項 石垣原の戦い
・この逸話は、黒田側の視点から、特に荒巻軍兵衛、井上元房(之房)等に焦点を当てている。
・大友義統が木付(杵築)城を攻めると聞いて、如水は後巻(城を包囲する敵をさらに外から包囲すること)をしたので、大友は立石に退き、石垣原に先陣を押し進めた。黒田の侍大将、久野治右衛門は、若年のため曾我部五左衛門(五右衛門)を同伴させていた。敵四、五〇〇〇ほどが立石の民家を背後にして待ち構えていたところ、これを久野が遥か遠くから見て、「かかれ」と命令した。これを、曾我部が「今しばらくお待ちください。焦っては勝利できません。馬から下り立って一息つかせ、兵たち一同に弁当をとらせ、味方が後続するときに突撃して、一戦するべきです」と言って止めたが、久野は聞き入れなかった。久野の従者の荒巻軍兵衛という者は豊前の地侍であったが、年少の頃は名を「宮松」といって、十五歳にして既に功名を知られていた剛勇の者であった。この荒巻が、「五左衛門の言葉はもっともだ。馬にぶつかり倒して敵を蹴散らすというのは、相手によることだ。今日の敵は国替えの時に知り合った者たちで、皆老練だ。近年は落ちぶれていたので、この兵乱を自分たちの死に時と覚悟して、槍を膝の上に置いて静まり返っている。これに一騎や二騎がばらばらと走り寄って対決したところで、どうして勝つことができようか。槍が折れるほどの戦いでなければ、勝利は叶わない」と言って、馬から飛び降りて久野の馬の口に近づき轡を掴み取って、「若気とはいいながら、あまりの焦りよう。後陣に先を越されるというのなら恥にもなりましょうが。後ろの味方が迫った時に攻めかかって突き崩すのが良かろう」と言った。
しかし平田彦右衛門という者が馬上から、「いやいや、後陣を待とうすれば、井上・野村は小賢しい男たちだから、必ず先を争うだろう。大友の者たちは杵築で疲れて、再びここに来たのだ。いざ進め進め」と言ったので、荒巻は怒って、「平田よ、おまえと私は共に豊前の者だから、おまえの力量は知っている。今井の浜の戦さでお前を追いかけたとき、鎧の押付を斬った疵は今も残っているだろう。その後、「あの男の健気さゆえに、仕留めませんでした」と言ったから、俸禄を得られるようになったものを、お前は私のお陰だと喜んでいたのを忘れたのか」と言い捨てて、馬に乗って先駆けて行った。続いて来た二十騎ほどを率いて攻めかかった。三手に分かれていた一陣を付き崩した。久野はせいていたので少しも躊躇することなく、真一文字にきりこんで戦ったが、大友の兵たちは度々のことで慣れきって、亡き主君の招きに従ったこの合戦で、今日を最期の日と思って、片膝ついて待ち構えていたので、久野主従五十騎は一所で討たれてしまった。
曾我部は久野が討たれていたところに横から割って入って討たれた。平田は久野が討たれるのを見て、馬を返して引き退いた。荒巻は、敵が先を競って攻めかかって来るのを見て、「ここは撤退しよう」と、人を集めようとしたが、敵が激しく進んでくるのを見ると、討ち取った首を全て捨てさせ、馬を急かせて退却させた。荒巻は殿を受け持って退いたが、久野が討死したことを知らなかったので、その日の功績は無駄になってしまった。
黒田の二陣の侍大将は井上九郎右衛門元房(之房)<後に周防と称す>・野村市右衛門(祐直)<後に隼人と称す>は遥か後方で鬨の声を聞き、「この山に登って陣立てを見て招こう」と、井上は手下の者に命令して、さらに進んで行った。野村が、「この先で戦いが起こっているのは明白だ。何を見極めることがあろう」と言ったが、井上の陣が固まっていて通してくれなかった。「いま少し軍陣を先に進み出させよ。広い場所に陣を置こう」と言ったが、これも聞き入れてもらえなかったので、独り言を言いながら怒っていたところ、井上主従三騎が小山に乗り上げて、指物を抜いて味方を招き、陣を進めたのだった。
―井上は、唐冠の兜に、鳥毛の棒の指物をしていたという。また、佩盾(膝鎧)を取り外して捨てたので、井上の手下の者が、「これは激戦だ」と勇み立ったという。―
井上・野村は、「敵はみな、徒歩だ。馬の駆けやすい場所だからと騎馬を頼りにしても、決死の覚悟の敵には軽々しく攻めかかり難い」と、皆で馬から下り立ち、「勝ちに乗じている敵で、特に譜代重恩の侍どもは、今日を最期と覚悟しているから、敵が攻めかかって来ても、こちらから進んで応戦してはならない。敵を待ち受けて戦え。もし敵が崩れても、隊列を乱して追撃してはならない」と命令して、静かに攻め寄せて行った。大友の軍兵はこれを見て、「方々から散り散りに攻めて来たなら、たちどころにつき崩せるだろう」と考えていたが、誤算だった。
野村は朝鮮で漢南の戦に功名をあげ、膝に傷を負い、歩行が不自由になっていたので、「身体不自由な者でござるゆえ、馬に乗ってござる」と言って命令した。
石垣原は、野原の中央に、高さ一丈余りの石垣土手が六、七町ほども続いていた。井上・野村は、「石垣をこちらのものにすれば、戦いに勝てる」と、進んで行ったが、敵も同じく進んで来て、石垣を越えようとしたので、突き崩した。しかし、逃げる敵を追いはしなかった。井上は槍を横にして味方を抑え、野村は馬で巡回して隊列を整えた。大友の侍大将、吉弘嘉兵衛(統幸)・宗像掃部はこれを見て、「これでは負けてしまう。敵が勝ちに乗じて隊列を乱したところを追い詰めようと思ったが、どうしようもない。とにかく討死しようと覚悟したのだから、さあ、攻めかかろう」と、歩兵二〇〇〇ほどで静かに進み寄って行った。井上・野村は、これを見て少しも慌てず、片膝ついて構え、自分たちから攻めかからずに待ち構えた。間近に詰め寄ってきてから散々に突きあったり斬り合ったりして、大友勢が一町ほど引きのいても僅かに追いかけることもしなかった。もとの場所にひざまづいて心静かに息継ぎした。大友勢は再び攻めかかって来て、ここを分け目と火花を散らして戦ったのだ。
吉弘が薙刀を振り、今日を最期と活躍するのを井上が見ると、「いざ、手合わせ参ろう」と声をかけたので、吉弘も笑ってわたりあったが、草摺の端を十文字の槍に突かれて、重傷だったので少し退いたところを、小栗治右衛門の従者で弓を持っていた者が体の真ん中を射抜いた。吉弘は戦意盛んだったがとうとう逆転叶わず、首を小栗に討ち取られてしまったのだった。
―また、一説によると、吉弘は黒革で威した鎧を着て、熊毛でしころを飾った兜をつけ、三尺ほどの刀で、井上と馬上で渡り合った。馬から突き落とされたとき、脇差を抜いて手裏剣のようにして投げると、井上の左の腿に当たった。その間に小栗が引き組んで、吉弘の首を討ち取ったという。
―また、一説によると、吉弘と井上は、吉弘が豊前の中津に一年いたときに親交が深くなったので、この日、井上は吉弘の胸板を二度も突いたが、鎧が堅かったので裏まで貫けなかった。今度は吉弘の内兜を突いたところ、十文字の刀の側面が忍の緒(兜の、顎で結ぶ紐)を切り、兜が傾いて視界を遮ったので、少し後ずさりしたのを、吉弘の左の脇から青い下着がみえたのを目掛けて脇腹を突いたので、吉弘も遂に討ち取られたとも言われる。
また、この戦いの跡地に吉弘の幽霊が現れ、往来する人に祟りをなしたので、吉弘に縁者が石垣原の傍ら、別府という所に吉弘の死体を葬ったのだった。別府・清田・浜田の百姓が瘧(おこり。伝染病の一つで、高熱を発する)に悩まされたとき、米を供えるとたちまち治ったのだった。(※武者物語の逸話です 引用者注)
吉弘の嫡子は加藤清正に仕え、次男は細川忠興に仕えたが、父の死んだ場所を見ようと、別府に言ってその墓標を拝んだ。だが、米を多く供え過ぎたので鳥が集まって来て、糞で汚れてしまっていた。そこで、「今後は武具を備えたら治すようにしてください。そうでなければ治さないようにしてください」と言うと、それ以来、米を供えても効験は現れなくなった。木刀を作って供えると、効験があったという。
宗像掃部も、井上の従者、大野勘右衛門と取っ組みあったときに、勘右衛門の弟、休也という法師武者が走り寄って来て、掃部の脇腹に刀を突き立て、「えいや」と刀を跳ね上げたので、とうとうそこで討ち取られてしまった。
大友の軍勢は、突き崩されてはさっと退き、また押し寄せ攻めかかったが、井上・野村は追いかけず、もとの場所に跪き、再び大友勢が攻めかかって来たので、立ち上がり槍を突いて退けるということを、何度と知らず繰り返した。大友の軍勢はとうとう負けて、残りの兵が少なくなるほど討ちとられしまったので、僅かな人数のまま立石に退却した。
そして吉統は、戦力がなくなって、如水に降参したのだった。
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